・・・海は勿論砂山に隠れ、浪の音もかすかにしか聞えなかった。しかし疎らに生え伸びた草は何か黒い穂に出ながら、絶えず潮風にそよいでいた。「この辺に生えている草は弘法麦じゃないね。――Nさん、これば何と言うの?」 僕は足もとの草をむしり、甚平・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・が、こっちもここにいては命にかかわると云う時でございますから、元よりそんな事に耳をかす訳がございませぬ。そこで、とうとう、女同志のつかみ合がはじまりました。「打つ。蹴る。砂金の袋をなげつける。――梁に巣を食った鼠も、落ちそうな騒ぎでござ・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・「質に置いたら、何両貸す事かの。」「貴公じゃあるまいし、誰が質になんぞ、置くものか。」 ざっと、こんな調子である。 するとある日、彼等の五六人が、円い頭をならべて、一服やりながら、例の如く煙管の噂をしていると、そこへ、偶然、・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・あの人は何事もないような顔をして、いろいろ私を唆かすような、やさしい語をかけてくれる。が、一度自分の醜さを知った女の心が、どうしてそんな語に慰められよう。私はただ、口惜しかった。恐しかった。悲しかった。子供の時に乳母に抱かれて、月蝕を見た気・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。 そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこか・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ 声はいかにもかすかだった。「もっと大きく。」「わん。わん。」 乞食はとうとう二声鳴いた。と思うと窓の外へネエベル・オレンジが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好い。乞食は勿論オレンジに飛びつき、主計官は勿論笑ったのであ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・と謂った声がうるんで、少し枕を動かすと、顔を仰向けにして、目を塞いだがまた涙ぐんだ。我に返れば、さまざまのこと、さまざまのことはただうら悲しきのみ、疑も恐もなくって泣くのであった。 髪も揺めき蒲団も震うばかりであるから、仔細は知らず、七・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・……雨水が渺々として田を浸すので、行く行く山の陰は陰惨として暗い。……処々巌蒼く、ぽっと薄紅く草が染まる。嬉しや日が当ると思えば、角ぐむ蘆に交り、生茂る根笹を分けて、さびしく石楠花が咲くのであった。 奥の道は、いよいよ深きにつけて、空は・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ しかし、硝子を飛び、風に捲いて、うしろざまに、緑林に靡く煙は、我が単衣の紺のかすりになって散らずして、かえって一抹の赤気を孕んで、異類異形に乱れたのである。「きみ、きみ、まだなかなかかい。」「屋根が見えるでしょう――白壁が見え・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・狼、のしのしと出でてうかがうに、老いさらぼいたるものなれば、金魚麩のようにて欲くもあらねど、吠えても嗅いでみても恐れぬが癪に障りて、毎夜のごとく小屋をまわりて怯かす。時雨しとしとと降りける夜、また出掛けて、ううと唸って牙を剥き、眼を光らす。・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
出典:青空文庫