・・・そればかりじゃあ無い、奉公をしようと云ったって請人というものが無けりゃあ堅い良い家じゃあ置いてくれやしないし、他人ばかりの中へ出りゃあ、この児はこういう訳のものだから愍然だと思ってくれる人だって有りゃあしない。だから他郷へ出て苦労をするにし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・己が満足を感じ、幸福を感じて死にたいものと思う、而して其生に於ても、死に於ても、自己の分相応の善良な感化・影響を社会に与えて置きたいものだと思う、是れ大小の差こそあれ、其人々の心がけ次第で、決して為し難いことではないのである。 不幸短命・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・――然し皆の胸の中には固い、固い決意が結ばれて行った。 * メリヤス工場では又々首切りがあるらしかった。何処を見ても、仕事がなくて、食えない人がウヨウヨしていた。お君はストライキの準備を進めながら、暇を見ては仕事を探・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・世はさびしく、時は難い。明日は、明日はと待ち暮らしてみても、いつまで待ってもそんな明日がやって来そうもない、眼前に見る事柄から起こって来る多くの失望と幻滅の感じとは、いつでも私の心を子供に向けさせた。 そうは言っても、私が自分のすぐそば・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上げる度に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・背後にだけ硬い白髪の生えている頭である。破れた靴が大き過ぎるので、足を持ち上げようとするたびに、踵が雪にくっついて残る。やはり外の男等のように両手を隠しに入れて頭を垂れている。しかし何者かがその体のうちに盛んに活動している。右の手で絶えず貨・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それにね、あの人は堅いのよ。わたしより外の女に関係していないということは、わたし受け合っても好いの。なぜ笑うの。いつかもわたしに打ち明けて話したわ。そら。わたしが諾威へ旅稼に行ったでしょう。あの留守に、あの厭なフリイデリイケが来てごまかそう・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・三島には、その他にも数々の忘れ難い思い出があるのですけれども、それは又、あらためて申しましょう。そのとき三島で書いた「ロマネスク」という小説が、二三の人にほめられて、私は自信の無いままに今まで何やら下手な小説を書き続けなければならない運命に・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 女房は夢の醒めたように、堅い拳銃を地に投げて、着物の裾をまくって、その場を逃げ出した。 女房は人げの無い草原を、夢中になって駆けている。唯自分の殺した女学生のいる場所から成たけ遠く逃げようとしているのである。跡には草原の中には赤い・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・さびしい悲しい夕暮れは譬え難い一種の影の力をもって迫ってきた。 高粱の絶えたところに来た。忽然、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫