・・・次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲団もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠っていた。 朝飯を済まして、書留だったらこれを出せと云って子供に認印を預けて置いて、貸家捜しに出かけようとしている処へ、三百が、格子外から声かけた。「家も定まった・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ある窓のなかには古ぼけた蚊帳がかかっていた。その隣の窓では一人の男がぼんやり手摺から身体を乗り出していた。そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、箪笥などに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであった。石田にはそれらの部屋を区切っ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。 城の本丸に電燈が輝いていた。雨に光沢を得た樹・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・になればなんでもないサ』と私もしょうことなしに宥めていましたが、お俊が帰りそうにもないので、『静かになったようだから見て来たらよかろう』と言いますと、お俊は黙って起って出てゆきましたから、私はすぐ蚊帳の内に入ってしまったのでございます。・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ トシエは、座敷に、蝿よけに、蚊帳を吊って、その中に寝ていた。読みさしの新しい雑誌が頭のさきに放り出されてあった。飯の用意はしてなかった。「子供でも出来たら、ちっとは、性根を入れて働くようになろうか。」 飯を食って、野良へ出てか・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・「あンちき生、課長や、山長さんにゃおべっかばっかしこけやがって!」 阿見がケージをたゞ一人で占領して上へあがると、びっこの爺さんが笑い出した。 市三は、罪人のようにいつまでも暗いところで小さく悄げこんでいた。「何だい、おじ/・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・玩具のような足の低い蚊帳。 それに番号の片と針と糸を渡されたので、俺は着物の襟にそれを縫いつけた。そして、こっそり小さい円るい鏡に写してみた。すると急に自分の顔が罪人になって見えてきた。俺は急いで鏡を机の上に伏せてしまった。 雑役が・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ど類のないのを着て下されとの心中立てこの冬吉に似た冬吉がよそにも出来まいものでもないと新道一面に気を廻し二日三日と音信の絶えてない折々は河岸の内儀へお頼みでござりますと月始めに魚一尾がそれとなく報酬の花鳥使まいらせ候の韻を蹈んできっときっと・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものば・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・冷しい雨の音を聞きながら、今昔のことを考える。蚊帳の中へ潜り込んでからも、相川は眠られなかった。多感多情であった三十何年の生涯をその晩ほど想い浮べたことはなかったのである。 寝苦しさのあまりに戸を開けて見た頃は、雨も最早すっかり止んでい・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫