・・・ 婆やは八っちゃんをかっきり膝の上に抱き上げてまた脊中をたたいた。僕はいつ来たとも知らぬ中に婆やの側に来て立ったままで八っちゃんの顔を見下していた。八っちゃんの顔は血が出るほど紅くなっていた。婆やはどもりながら、「兄さんあなた、早く・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――「ああ、そうですな」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・というものの間に存するかっきりした距たりを瞬間の味覚に翻訳して味わうのである。 土佐の貧乏士族としての我家に伝わって来た雑煮の処方は、椀の底に芋一、二片と青菜一とつまみを入れた上に切餅一、二片を載せて鰹節のだし汁をかけ、そうして餅の上に・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・「ああ、十一時かっきりには着くんだよ。」 早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間も・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・では今日は練習はここまで、休んで六時にはかっきりボックスへ入ってくれ給え。」 みんなはおじぎをして、それからたばこをくわえてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。ゴーシュはその粗末な箱みたいなセロをかかえて壁の方へ向いて口をまげ・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺の幹の影といっしょに雪にかっきり藍いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。 白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲んでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。 小十郎は谷に入・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・女の子が声を揃えて一、二とかけ声をかけたり、女の子が力をかっきりこめず、イー、ニー、と澄んだ声をそろえて〔後欠〕 四月十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より〕 第十一信の倉知の叔父――咲枝の父。 五月十日朝 ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 昼間は、多勢の人々の動作につれて、いつもみだされて居た家具調度の輪廓が、妙にくっきりとうき上って、しんと澱んだ深夜の空気の中に、かっきりとはめ込んだようにさえ見える。が、その静粛な明確さは決して魂のないものではない。 人々が寝室に・・・ 宮本百合子 「無題(三)」
出典:青空文庫