・・・しかしまだそのほかにも何か発作的に制作慾の高まり出したのも確かだった。わたしは下宿へ帰らずにとりあえずMと云う家へ出かけ、十号ぐらいの人物を仕上げるためにモデルを一人雇うことにした。こう云う決心は憂鬱の中にも久しぶりにわたしを元気にした。「・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・ちょうどそれと同じように、無線電信や飛行機がいかに自然を征服したと云っても、その自然の奥に潜んでいる神秘な世界の地図までも、引く事が出来たと云う次第ではありません。それならどうして、この文明の日光に照らされた東京にも、平常は夢の中にのみ跳梁・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・あるじはあえて莞爾やかに、「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、幾許するか知らなかった。 皆、親のお庇だね。 その阿母が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 犬張子が横に寝て、起上り小法師のころりと坐った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳の衣紋も繕わず、姉さんかぶりを軽くして、襷がけの二の腕あたり、日ざしに惜気なけれども、都育ちの白やかに、紅絹の切をぴたぴたと、指を反らした手の捌き、波・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ いかに孝女でも悪所において斟酌があろうか、段々身体を衰えさして、年紀はまだ二十二というのに全盛の色もやや褪せて、素顔では、と源平の輩に遠慮をするようになると、二度三度、月の内に枕が上らない日があるようになった。 扱帯の下を氷で冷す・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ そういわれて省作は俄かに居ずまいを直した。そうして、「おッ母さん、わたしだってそんなに暢気でいやしませんよ。年寄にそう心配さしちゃすまないですが、実はおッ母さん、あの家はむこうで置いてくれてもわたしの方でいやなんです。なんのかんの・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・だれか、たしかに戸をたたいているのです。「おじいさんが、帰ってきなすったのだろう。」と、太郎は思いましたが、また、先刻、野原に赤いろうそくの火がたくさん点っていたことを思い出して、もしやなにか、きつねか悪魔がやってきて、戸をたたくのでは・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・うららかに日が当たって、野も、山も、かすんで見えました。夢の国の景色をながめたのであります。女は、やさしい仏さまに道案内をされて、広い野原の中をたどり、いよいよ極楽の世界が、山を一つ越せば見えるというところまで達しました。「さあ、もうじ・・・ 小川未明 「ちょうと三つの石」
・・・ 二郎さんは、バケツの 中の かにを、きみ子さんに みせて やりました。「メロンを きりましたから、いらっしゃい。」と、おかあさんが およびに なりました。ふたりは とんで きました。「この つめたいのを、にいさんに やりた・・・ 小川未明 「つめたい メロン」
・・・ そう言えば、たしかに私の放浪は生れたとたんにもう始まっていました……。 生れた時のことはむろんおぼえはなかったが、何でも母親の胎内に八月しかいなかったらしい。いわゆる月足らずで、世間にありがちな生れだったけれど、よりによって生れる・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫