・・・の顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥穏和なことは、殆ど皆一様で、何処となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物見切の安売・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・彼の神経は過敏になって居た。「おっつあん」と先刻の対手が喚びかけた。太十はまたごろりとなった。「おっつあん縛ったぞ」 三次の声で呶鳴った。「いいから此れ引っこ抜くべ」という低い声が続いて聞えた。「おっつあん此のタ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 画は一輪花瓶に挿した東菊で、図柄としては極めて単簡な者である。傍に「是は萎み掛けた所と思い玉え。下手いのは病気の所為だと思い玉え。嘘だと思わば肱を突いて描いて見玉え」という註釈が加えてあるところをもって見ると、自分でもそう旨いとは考え・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・され奔命に堪ずして悲鳴を上るに至っては自転車の末路また憐むべきものありだがせめては降参の腹癒にこの老骨をギューと云わしてやらんものをと乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる、然るにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり、向へ・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・の皮下注射方もっとも適当にして、医師も常にこの方に依頼して一時の急に応ずといえども、その劇痛のよって来る所の原因を求めたらば、あるいは全身の貧血、神経の過敏をいたし、時候寒暑等の近因に誘われて、とみに神経痛を発したるものもあらん。全身の貧血・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・「ずいぶん神経過敏な人だ。すると病気でないものは僕とクォーツさんだけだ。」「うむ、うむ、そのホンブレンもバイオタと同病。」「あ、いた、いた、いた。」「おや、おや、どなたもずいぶん弱い。健康なのは僕一人。」「うむ、うむ、そ・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・「さあいずれ模様を見まして、鶏やあひるなどですと、きっと間違いなく肥りますが、斯う云う神経過敏な豚は、或は強制肥育では甘く行かないかも知れません。」「そうか。なるほど。とにかくしっかりやり給え。」 そして校長は帰って行った。今度・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・家庭というもののうちにあるそういう煩わしい、幾分悲しく腹立たしい過敏な視線が、若い世代を外へとはじき出していることを、父母たちはどの程度に洞察しているだろうか。 社会の歩みは日本の今日の若い世代を片脚だけ鎖の切れたプロメシゥスのような存・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・ 親元に報じてやる手紙が出されるのを見てから赤子のわきに横になりはなっても、自分が経験した病気に対する、あらゆる悲しさや恐ろしさが過敏になった心に渦巻きたって、もうどうしても死なねばならないときまってしまった様な厳な気持になったりして、・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・今年のメーデーは特別神経過敏で、警官を半数ずつトラックに載せて一時間おきにつみかえ、待機するようにという説があった。しかし、それも余り仰々しいというのでトラックを準備するだけになった。看守が疲労で蒼くむくんだ瞼をし、「……トラックにのっ・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫