・・・何しろこう下腹が押し上げられるように痛いと云うんですから――」「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」 戸沢はセルの袴の上に威かつい肘を張りながら、ちょいと首を傾けた。 しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものが・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・いきなり、けらけらと笑ったのは大柄な女の、くずれた円髷の大年増、尻尾と下腹は何を巻いてかくしたか、縞小紋の糸が透いて、膝へ紅裏のにじんだ小袖を、ほとんど素膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の陽炎、ふかふかと湯気の立つ、雁もどきと、蒟蒻の煮込のお・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・悲惨な事には、水ばかり飲むものだから、身籠ったようにかえってふくれて、下腹のゆいめなぞは、乳の下を縊ったようでしたよ。 空腹にこたえがないと、つよく紐をしめますから、男だって。…… お雪さん――と言いました。その大切な乳をかくす古手・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・しくしく下腹の痛む処へ、洪水のあとの乾旱は真にこたえた。鳥打帽の皺びた上へ手拭の頬かむりぐらいでは追着かない、早や十月の声を聞いていたから、護身用の扇子も持たぬ。路傍に藪はあっても、竹を挫き、枝を折るほどの勢もないから、玉江の蘆は名のみ聞く・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ 二人が、この妾宅の貸ぬしのお妾――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の室へ立った間に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、「御苦労々々。」 と、調子づいて、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・かり、濡色の鯛を一枚、しるし半纏という処を、めくら縞の筒袖を両方大肌脱ぎ、毛だらけの胸へ、釣身に取って、尾を空に、向顱巻の結びめと一所に、ゆらゆらと刎ねさせながら、掛声でその量を増すように、魚の頭を、下腹から膝頭へ、じりじりと下ろして行くが・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・もっとも、四五年前にも同じ病気に罹ったのであるが、その時は急発であるとともに三週間ばかりで全治したが、今度のはジリジリと来て、長い代りには前ほどに苦しまぬので、下腹や腰の周囲がズキズキ疼くのさえ辛抱すれば、折々熱が出たり寒気がしたりするくら・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ところが、一代は退院後二月ばかりたつとこんどは下腹の激痛を訴え出した。寺田は夜通し撫ぜてやったが、痛みは消えず、しまいには油汗をタラタラ流して、痛い痛いと転げ廻った。再発した癌が子宮へ廻っていたのだ。しかし医者は入院する必要はないと言う。ラ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・しかし今日の、人間の文化と禍福とがますます密接に政治に依属しつつある時代において、政治の根本精神を正し、その理想を標幟せしむる啓蒙運動に、文化指導の任務を自覚するわれわれが関わりを持たずにいられないのは当然なことである。それは日蓮の時代より・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ マルクスが問うてみせるまで、常人はそれほどにも自分らの禍福の根因であるこの問いを問うことができなかった。 天才の書によってわれわれは自分の力では開き得ない宇宙と人間性との奥深き扉をのぞき得るのである。それは最も深き意味での人間教育であ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
出典:青空文庫