月の冴えた十一月の或る夜である。 二羽の鴨が、田の畔をたどりたどり餌を漁って居る。 収獲を終った水田の広い面には、茶筅の様な稲の切り株がゾクゾク並んで、乾き切って凍て付いた所々には、深い亀裂破れが出来て居る。 ・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
・・・ 彼は、ゴーリキイに、アンデルセンの有名な「見っともない雄鴨」の話を知っているかと訊いた。「この話は――誘惑する。君ぐらいの年には僕も、自分は白鳥じゃないか? と考えたもんだ。進歩――それは気休めだよ。人間が求めているのは忘却、慰安・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
松林、鎧戸を閉したヴィラの間を通って Hotel Hajek の庭 日覆の下の卓で昼餐。地酒の冷した白葡萄酒、鮎に似た魚、野鴨の雛、美味いライス、プディングをたべた。 小さい門、リラの茂、薄黄色模様の絹の布団、ジャケツ・・・ 宮本百合子 「無題(八)」
鴨 青々した草原と葦の生えた沼をしたって男鴨は思わず玉子色の足をつまだてて羽ばたきをした。幾度来てもキット猫か犬に殺されるものときまった様な自分の女房は十日ほど前にまっくろな目ばかり光る魔の様な黒猫にのどを・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・「なんでも江戸の坊様に御馳走をしなくちゃあならないというので、蕎麦に鳩を入れて食わしてくれたっけ。鴨南蛮というのはあるが、鳩南蛮はあれっきり食った事がねえ。」「そうしていると打毀という奴が来やがった。浪人ものというような奴だ。大勢で・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・このわたりの野に、鴨頭草のみおい出でて、目の及ぶかぎり碧きところあり、又秋萩の繁りたる処あり。麻畑の傍を過ぐ、半ば刈りたり。信濃川にいでて見るに船橋断えたり。小舟にてわたる。豊野より汽車に乗りて、軽井沢にゆく。途次線路の壊れたるところ多し、・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・清武の家は隣にいた弓削という人が住まうことになって、安井家は飫肥の加茂に代地をもらった。 仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これがお佐代さんがやや長い留守に空閨を守ったはじめである。 滄洲翁は中風で、六十・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫