・・・ しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。 城の本丸に電燈が輝いていた。雨に光沢を得た樹・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・になればなんでもないサ』と私もしょうことなしに宥めていましたが、お俊が帰りそうにもないので、『静かになったようだから見て来たらよかろう』と言いますと、お俊は黙って起って出てゆきましたから、私はすぐ蚊帳の内に入ってしまったのでございます。・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ トシエは、座敷に、蝿よけに、蚊帳を吊って、その中に寝ていた。読みさしの新しい雑誌が頭のさきに放り出されてあった。飯の用意はしてなかった。「子供でも出来たら、ちっとは、性根を入れて働くようになろうか。」 飯を食って、野良へ出てか・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・飯生酒など本社より八町ほど隔たりたるところに供置きて与うといえば、出で来ぬには限らぬなるべし、おそろしき事かななど寒月子と窃かに語り合いつつ、好きほどに酒杯を返し納めて眠りに就くに、今宵は蚊もなければ蚊屋も吊らで、しかも涼しきに過ぐれば夜被・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・玩具のような足の低い蚊帳。 それに番号の片と針と糸を渡されたので、俺は着物の襟にそれを縫いつけた。そして、こっそり小さい円るい鏡に写してみた。すると急に自分の顔が罪人になって見えてきた。俺は急いで鏡を机の上に伏せてしまった。 雑役が・・・ 小林多喜二 「独房」
おげんはぐっすり寝て、朝の四時頃には自分の娘や小さな甥なぞの側に眼をさました。慣れない床、慣れない枕、慣れない蚊帳の内で、そんなに前後も知らずに深く眠られたというだけでも、おげんに取ってはめずらしかった。気の置けないものば・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・冷しい雨の音を聞きながら、今昔のことを考える。蚊帳の中へ潜り込んでからも、相川は眠られなかった。多感多情であった三十何年の生涯をその晩ほど想い浮べたことはなかったのである。 寝苦しさのあまりに戸を開けて見た頃は、雨も最早すっかり止んでい・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・古い達磨の軸物、銀鍍金の時計の鎖、襟垢の着いた女の半纏、玩具の汽車、蚊帳、ペンキ絵、碁石、鉋、子供の産衣まで、十七銭だ、二十銭だと言って笑いもせずに売り買いするのでした。集る者は大抵四十から五十、六十の相当年輩の男ばかりで、いずれは道楽の果・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・この子は、母よりも父のほうをよけいに慕っていて、毎晩六畳に父と蒲団を並べ、一つ蚊帳に寝ているのです。「お寺へ。」 口から出まかせに、いい加減の返事をして、そうして、言ってしまってから、何だかとんでも無い不吉な事を言ったような気がして・・・ 太宰治 「おさん」
・・・蜘蛛のあんなに細い弱い糸の網で大きな蝉が捕られることから考えると、蚊帳一張りほどもない網で一台の飛行機が捕えられそうにも思われるが、実際はどうだか、ちょっと試験してみたいような気がするのである。 子供の時分にとんぼを捕るのに、細い糸の両・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
出典:青空文庫