・・・蜘蛛のあんなに細い弱い糸の網で大きな蝉が捕られることから考えると、蚊帳一張りほどもない網で一台の飛行機が捕えられそうにも思われるが、実際はどうだか、ちょっと試験してみたいような気がするのである。 子供の時分に蜻蛉を捕るのに、細い糸の両端・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・青蚊帳に微風がそよいで、今日も暑そうであったが、ここは山の庵にでもいるような気分であった。お絹はもう長いあいだ独身で通してきて、大阪へ行っている大きな子息に子供があるくらいだし、すっかり色の褪せた、おひろも、辰之助の話では、誰れかの持物にな・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 虫籠、絵団扇、蚊帳、青簾、風鈴、葭簀、燈籠、盆景のような洒々たる器物や装飾品が何処の国に見られよう。平素は余りに単白で色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・太十は番小屋の穢い蚊帳へ裸でもぐった。西の空に見えた夕月がだんだん大きくなって東の空から蜀黍の垣根に出るようになって畑の西瓜もぐっと蔓を突きあげてどっしりと黄色な臀を据えた。西瓜は指で弾けば濁声を発するようになった。彼はそれを遠い市場に切り・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 吉田はその工場に対してのある策戦で、蒸暑い夜を転々として考え悩んでいた。 蚊帳の中には四つになる彼の長男が、腐った飯粒見たいに体中から汗を出して、時計の針のようにグルグル廻って、眠っていた。かますの乾物のように、痩せて固まった彼の・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・夜中に蚊帳戸から、雨が吹き込んだので硝子戸を閉めた。朝になると、畑で秋の虫がしめた/\と鳴いていた。全く秋々して来た。夏中一つも実らなかった南瓜が、その発育不十分な、他の十分の一もないような小さな葉を、青々と茂らせて、それにふさわしい朝顔位・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・富沢は蚊帳の外にここの主人が寝ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分夢のように見た。(戻さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん続けて叩いていた。(亦何だか哀れに云って外へ出たらしい音がした。 あとはもう聞えないくら・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・「白い蚊帳」は時期から云えば「我に叛く」より数年あとになるが、これも或る意味では「伸子」に添えてよまれるべき性質の作品と云える。「伊太利亜の古陶」には、上流社会ずきの中流人の諷刺がある。中流といっても「牡丹」に描かれたような日かげの、あ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第三巻)」
・・・膳椀を買う。蚊帳を買う。買いに行くのは従卒の島村である。 家主はまめな爺さんで、来ていろいろ世話を焼いてくれる。膳椀を買うとき、爺さんが問うた。「何人前いりまするかの。」「二人前です。」「下のもののはいりませんかの。」「・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫