・・・八重田数枝のところに居辛くなって、そうして、こんどは僕の家へ飛び込んで来て、自惚れちゃだめよ、仕事の相談に来たの、なんて、いつもの僕なら、君はいまごろ横っつらの二つや三つぶん殴られている。」三木は流石に、蒼くなっていた。 さちよは、ぼん・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・チューインガムよりは刺激のある辛くて甘い特別な香味をもったものである。それから肉桂酒と称するが実は酒でもなんでもない肉桂汁に紅で色をつけたのを小さなひょうたん形のガラスびんに入れたものも当時のわれわれのためには天成の甘露であった。 甘蔗・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・永代橋を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛く思われた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまいたいような気がした。 ああ、しかし、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上って遠く行く・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・それは僕にとって非常に辛く、客と両方への気兼ねのために、神経をひどく疲らせる仕末だった。僕は自然に友人を避け、孤独で暮すことを楽しむように、環境から躾けられてしまったのである。 こうした環境に育った僕は、家で来客と話すよりも、こっちから・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・第三は私たちもこの中でありますが、いくら物の命をとらない、自分ばかりさっぱりしていると云ったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない、結局はほかの動物がかあいそうだからたべないのだ、小さな小さなことまで、一一吟味して大へんな手数・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 豚はあんまり悲しくて、辛くてよろよろしてしまう。「早くやっちまえばいいな。」 三人はつぶやきながら小屋を出た。そのあとの豚の苦しさ、(見たい、見たくない、早いといい、葱が凍る、馬鈴薯三斗、食いきれない。厚さ一寸の脂肪の外套、お・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・先生は、実際の女学校生活の間、所謂虫がすかなかったのだろう、何かとなく神経的に自分に辛く当った音楽の先生である。自分の縫ったものについて頻りに小言を云われる。夢の中にあり乍ら、私は、十七の生徒で真個に意地悪を云われた時と同様の苦しい胸の迫る・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ そうすると、今までは別にそれ程に思わなかった、自分は孤児だという事を、政子さんは此上なく寂しく辛く感じるようになりました。勿論両親のないと云う事は、真個に不幸な事です。けれども、もう死なれてしまった方がいらっしゃればよいと、いくら泣い・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・ 真個に、崖も辛く思う。然し、彼には手がない。彼方の崖にも腕がない。せめて柔かく身でも屈めてやりたいが、後に引続いた地盤は厚く広大で、動きもとれない。「ようお! よう!」 オイオイ泣く児を挾んで、崖は、冷たく、堅く立って居るよう・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・ くすんだ様な部屋の中に、ポッツリ独りで居るのが仕舞いには辛くなって来る。 若い人達が頭にさして居る様な、白い野菊の花だの、クリーム色をみどりでくまどったキャベージに似たしなやかな葉のものや、その他赤いのや紫のや、沢山の花のしげって・・・ 宮本百合子 「草の根元」
出典:青空文庫