・・・ 宗吉はかくてまた明神の御手洗に、更に、氷に閑らるる思いして、悚然と寒気を感じたのである。「くすくす、くすくす。」 花骨牌の車座の、輪に身を捲かるる、危さを感じながら、宗吉が我知らず面を赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・具足円満、平等利益――南無妙……此経難持、若暫持、我即歓喜……一切天人皆応供養。――」 チーン。「ありがとう存じます。」「はいはい。」「御苦労様でございました。」「はい。」 と、袖に取った輪鉦形に肱をあげて、打傾きざ・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・彼処を通抜けねばならないと思うと、今度は寒気がした。我ながら、自分を怪むほどであるから、恐ろしく犬を憚ったものである。進まれもせず、引返せば再び石臼だの、松の葉だの、屋根にも廂にも睨まれる、あの、この上もない厭な思をしなければならぬの歟と、・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・が、その口の端から渋江抽斎の写した古い武鑑が手に入ったといって歓喜と得意の色を漲らした。 鴎外が抽斎や蘭軒等の事跡を考証したのはこれらの古書校勘家と一縷の相通ずる共通の趣味があったからだろう。晩年一部の好書家が斎展覧会を催したらドウだろ・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 秋の末に帰京すると、留守中の来訪者の名刺の中に意外にも長谷川辰之助の名を発見してあたかも酸を懐うて梅実を見る如くに歓喜し、その翌々日の夕方初めて二葉亭を猿楽町に訪問した。 丁度日が暮れて間もなくであった。座敷の縁側を通り過ぎて陰気・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。もし今までのエライ人の事業をわ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 即ち存在の意義を別個のものとして、新しく生れるということに於て、創造は私たちに歓喜をよびおこす。 詩はついに、社会革命の興る以前に先駆となって、民衆の霊魂を表白している。例えばこれが労働者の唄う歌にしろ、或は革命の歌にしろ、文字と・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・もしこの世の中に、彼等を心から愛する、文学者、芸術家、若くは真理に忠実な科学者がなかったら、何人か、このものいわぬ謙虚な動物に対して、擁護すべく注意を喚起したものがあったでしょう。多くの人間は、動物を人類に隷属するものの如く考えて来た。しか・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
人間の幸不幸、それは一様ではない。十人が十人、皆それ/″\の悩みと楽しみとがある。併し恐らく一生を通じて苦悩のない者はなく、歓喜のないものも又ないだろう。そしてそれらは、波の寄せては返すように、循環しているものであろう。誰でもが自分の・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・も同じ病気に罹ったのであるが、その時は急発であるとともに三週間ばかりで全治したが、今度のはジリジリと来て、長い代りには前ほどに苦しまぬので、下腹や腰の周囲がズキズキ疼くのさえ辛抱すれば、折々熱が出たり寒気がしたりするくらいに過ぎぬから、今の・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫