・・・少し酒を過ごしての帰り途で寒気がしたが、あの時はもう既に病に罹っていたのだ。帰って寝たら熱が出てそれきり起きられぬ。医者は流行性でたいした事はないと云っていたが、今日来た時は妙に丁寧に胸を叩いたり聞いたりして首をひねってとうとうあんなことを・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・あるいは津田君の画にしばしば出現する不恰好な雀や粟の穂はセザンヌの林檎や壷のような一種の象徴的の気分を喚起するものである。君が往々用いる黄と青の配合までもまた後者を聯想せしめる事がある。このような共通点の存在するのは、根本の出発点において共・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・南洋では年じゅう夏の島がある、インドなどの季節風交代による雨期乾期のごときものも温帯における春夏秋冬の循環とはかなりかけ離れたむしろ「規則正しい長期の天気変化」とでも名づけたいものである。しかし「天気」という言葉もやはり温帯だけで意味をもつ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・それだのにわれわれはこの句によって限り無き情緒の活動を喚起されるのは何ゆえであろうか。 われわれにとっては「荒海」は単に航海学教科書におけるごとき波高く舟行に危険なる海面ではない。四面に海をめぐらす大八州国に数千年住み着いた民族の遠い祖・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・うような問題はあってもそれは別として、この事実はともかくも、過去の世界じゅうの人間の間の相互の交渉は、普通想像されているよりも、想像されうるであろうよりも、もう少し自由なものではなかったかという疑いを喚起させるには充分であろうと思う。 ・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・崖、病菌や害虫を培養する水たまりやごみため、亀裂が入りかかって地震があり次第断水を起こすような水道溝渠、こわれて役に立たぬ自働電話や危険な電線工事、こういう種類のものを報道して一般の用心と当局の注意を喚起したい。 社会の風教を乱すような・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・生徒に実験を授ける際に一度は必ずこういう点にも注意を喚起しなければならぬと思う。紙の尺度や竹の尺度などを比較させて見るもよかろうし、また十グラムの分銅二つと二十グラムの分銅一つとを置換して必ずしも同じでない事を示し、精密なる目的には尺度の各・・・ 寺田寅彦 「物理学実験の教授について」
・・・年のせいか左脚のリュウマチが、この二月の寒気で痛んでしようがなかった。「温泉にやりちゃあけんと、そりゃ出来ねえで、ウンと寝て癒してくんなさろ……」 息子は金がないのを詫びて、夫婦して、大事に善ニョムさんを寝かしたのだった……が、まだ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・それに熱でも出て来た故か、ゾッと寒気が背筋を走った。 彼は夜具を、スッポリ頭から冠って、眼を閉じた。いろんな事が頭をひっかき廻した。 あのときも……。 四五人のスキャップを雇い込んで、××町の交番横に、トラックを待たせておいて、・・・ 徳永直 「眼」
・・・然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一・・・ 永井荷風 「上野」
出典:青空文庫