・・・心を少しく引込め、引廻した屏風の端を引直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に坐って、先ず一服した後の煙管を男に出してやる――そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と無限の感謝を覚えるのである。無限の哀傷は恐ろし・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・二王子幽閉の場と、ジェーン所刑の場については有名なるドラロッシの絵画がすくなからず余の想像を助けている事を一言していささか感謝の意を表する。舟より上る囚人のうちワイアットとあるは有名なる詩人の子にてジェーンのため兵を挙げたる人、父子・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・と云いながら、列をはなれて杉の木の大監督官舎におりました。みんな列をほごしてじぶんの営舎に帰りました。 烏の大尉は、けれども、すぐに自分の営舎に帰らないで、ひとり、西のほうのさいかちの木に行きました。 雲はうす黒く、ただ西の山のうえ・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・八 秋 その年の農作物の収穫は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よくできましたので、火山局にはあっちからもこっちからも感謝状や激励の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きがいがあるように思いまし・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ れんは、感謝に堪えない眼をあげて、幾度も幾度も扉の把手につかまったまま腰をかがめた。「有難うございます。年をとりますと彼方此方ががたがたになりましてね。本当にまあ!」 彼女は、丁寧に辞宜をした。「有難うございます」 そ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 跋を見れば、きょうの著者の日々は官舎に暮す小柄な軽口をいう無邪気な若い主婦の暮しである。 あの八月九日の夜、新京から真先に遁走を開始した関東軍とその家族とは、三人の子をつれて徒歩でステーションに向う著者にトラックの砂塵をあびせ、列・・・ 宮本百合子 「ことの真実」
・・・ここらで省筆をするのは、読者に感謝して貰っても好い。 尤もきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒方某は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩の時、千住で小休みをする度毎に、緒方の家が御用を承わることに極まっていた。花房の父があの家・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・知県の官舎で休んで、馳走になりつつ聞いてみると、ここから国清寺までは、爪尖上がりの道がまた六十里ある。往き着くまでには夜に入りそうである。そこで閭は知県の官舎に泊ることにした。 翌朝知県に送られて出た。きょうもきのうに変らぬ天気である。・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・ お霜は妹にそう云っている安次の声からも感謝の気持を見出した。そして、自分が預る「仏の利生」を、それだけ妹の方に分けられはすまいかと、今さら不安な気持が起って来ると、自分よりも先に医者を迎えに行ったお留の仕打ちに微かな嫉妬を感じて来た。・・・ 横光利一 「南北」
・・・なって、心に畳まってる思いの数々が胸に波を打たせて、僕をジット抱〆ようとして、モウそれも叶わぬほどに弱ったお手は、ブルブル震えていましたが、やがて少し落着て……、落着てもまだ苦しそうに口を開けて、神に感謝の一言「神よ、オオ神よ、日々年々のこ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫