・・・たとえ、その光には、嚇々とした夏があり、楽しみの多き、また働き甲斐の多き、雄壮な人生が控えていたとはいえ。自分にとって最も、美しい幻の如く、若やかな、そして熱い血の胸に躍った、なやましい日のつゞいた、憧がれ心地に途をさ迷った、二十時代を送る・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・それやったら、よけい教え甲斐がおますわ」 肺病を苦にして自殺をしようと思い、石油を飲んだところ、かえって病気が癒った、というような実話を例に出して、男はくどくどと石油の卓効に就いて喋った。「そんな話迷信やわ」 いきなり女が口をは・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕までやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のようにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・草や虫や雲や風景を眼の前へ据えて、ひそかに抑えて来た心を燃えさせる、――ただそのことだけが仕甲斐のあることのように峻には思えた。「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんな・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・このまま邪宗とまじわり、弘教せんより、しばらく山林にのがれるにはしかないと、ついに甲斐国身延山に去ったのである。 これは日蓮の生涯を高く、美しくする行持であった。実に日蓮が闘争的、熱狂的で、あるときは傲慢にして、風波を喜ぶ荒々しき性格で・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 常に労働者と鼻突きあわして住み、また農産物高の半面、増税と嵩ばる生活費に、農産物からの増収を吐き出して足りない百姓の生活を目撃している者には、腑甲斐ない話だとそれは嘆ぜられるのだ。攻勢の華やかな時代にプロレタリア文学があって、敗北の闇・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・その恐ろしい山々の一ト列りのむこうは武蔵の国で、こっちの甲斐の国とは、まるで往来さえ絶えているほどである。昔時はそれでも雁坂越と云って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪しい地図に道路があるように書いてあるのもある。し・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・あれほどおげんは頼み甲斐のない旦那から踏みにじられたように思いながらも、自分の前に手をついて平あやまりにあやまる旦那を眼前に見、やさしい声の一つも耳に聞くと、つい何もかも忘れて旦那を許す気にもなった。おげんが年若な伜の利発さに望みをかけ、温・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・それはポルジイにも分かっているから、我ながら腑甲斐なく思う。しかし平生克己ということをしたことのない男だから、またしては怒に任せて喧嘩をする。 ある日ドリスが失踪した。暇乞もせずに、こっそりいなくなった。焼餅喧嘩に懲りたのである。ポルジ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫