・・・それでもまだ金の足りない時には赤い色硝子の軒燈を出した、人出入の少い土蔵造りの家へ大きい画集などを預けることにした。が、前借の見込みも絶え、父母兄弟とも喧嘩をした今は、――いや、今はそれどころではない。この紀元節に新調した十八円五十銭のシル・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 彼女の帰ってしまった後、わたしは薄暗い電燈の下に大きいゴオガンの画集をひろげ、一枚ずつタイテイの画を眺めて行った。そのうちにふと気づいて見ると、いつか何度も口のうちに「かくあるべしと思いしが」と云う文語体の言葉を繰り返していた。なぜそ・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・ 四 さるほどに蝦蟇法師はあくまで老媼の胆を奪いて、「コヤ老媼、汝の主婦を媒妁して我執念を晴らさせよ。もし犠牲を捧げざれば、お通はもとより汝もあまり好きことはなかるべきなり、忘れてもとりもつべし。それまで命を預け・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・啻だ数量ばかりでなく優品をも収得したので、天居は追ては蒐集した椿岳の画集を出版する計画があったが、この計画が実現されない中に、惜い哉、この比類のない蒐集は大震災で烏有に帰した。天居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒った椿岳の画短冊は・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・神を恐れぬこの傲慢、痴夢、我執、人間侮辱。芸術とは、そんなに狂気じみた冷酷を必要とするものであったでしょうか。男は、冷静な写真師になりました。芸術家は、やっぱり人ではありません。その胸に、奇妙な、臭い一匹の虫がいます。その虫を、サタン、と人・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ああ、私の愛情は、私の盲目的な虫けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。 路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字が・・・ 太宰治 「思案の敗北」
・・・ すべては、自身の弱さから、――私は、そう重く、鈍く、自己肯定を与えているのであるが、――すべては弱さと、我執から、私は自身の家をみずから破った。ばらばらにしちゃった。外へ着て出る着物さえ無い始末である。これでは、いけない。ふんどし一つ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 宿河原のぼろぼろの仇討決闘の話でも、我執無慙を非難すると同時にまた「死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよさ」を讃えている。 これらの著者の態度は一方から云えば不徹底で生煮えのようでもあるが、ものの両面を認識して全体を把握し・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・ 一つ確かに覚えているのは、レンブラント画集の立派なのが他の二、三の画集と並んで本箱に立ててあった事で、これだけが荒涼な室の中に著しい異彩を放っていた。それからもう一つ、描きかけの自画像で八号か十号くらいだったかと思う。一体に青味の勝っ・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
出典:青空文庫