・・・は私の醒めがたい悪夢から這いださしてくださいました――私がここから釈放された時何物か意義ある筆の力をもって私ども罪に泣く同胞のために少しでも捧げたいと思っております――何卒紙背の微意を御了解くださるように念じあげます云々―― 終日床・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・しかしなんという言いあらわしがたい感情に包まれた風景か。その銅板画にはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛っているのは家である。その忍苦の表・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・「電車のなかでは顔が見難いが往来からだとかすれちがうときだとかは、かなり長い間見ていられるものだね」と云いました。なにげなく友の云った言葉に、私は前の日に無感覚だったことを美しい実感で思い直しました。五 これはあなたにこ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・「その夜、門口まで送り、母なる人が一寸と上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路に就きましたが、或難い謎をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉く了解りでもするといったような心持がして、決して比喩じゃアない、確にそういう心持がして、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かって・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・最も許しがたいのは倫理的なものに関心を持たぬアモラールである。それは人間としての素質の低卑の徴候であって、青年として最も忌むべき不健康性である。健康なる青年にあってはその性慾の目ざめと同時に、その倫理的感覚が呼びさまされ、恋愛と正義とがひと・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ ハルトマンはこれらのものから自由を証明できないが、不自由は一層証明し難い、というのみである。 詮ずるところ、われわれは決定論によっても、非決定論によっても、自由の満足なる説明を今のところ見出し得ない。この倫理学上の根本問題は謎とし・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・それは昭和十一年建てられた当時、墨の色もはっきりと読取られたものであるが、軟かい石の性質のためか僅か五年の間に墨は風雨に洗い落され、碑石は風化して左肩からはすかいに亀裂がいり、刻みこまれた字は読み難いほど石がところどころ削げ落ちている。自分・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・浅草の観音もさほど有がたいとは思われなかった。せわしく往き来する人や車を両人はぼんやり立って見ていた。頭がぐらぐらして倒れそうな気がした。「じいさん、うら腹が減ったがいの。」と、ばあさんは迷い迷って、人ごみの中をようよう公園の方へぬけて・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・席上鋳金に美術を求める、そんな分らない校長ではないと思っていたが、校長には校長の考えもあろうし、鋳金はたとい蝋型にせよ純粋美術とは云い難いが、また校長には把掖誘導啓発抜擢、あらゆる恩を受けているので、実はイヤだナアと思ったけれども枉げて従っ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫