・・・いわんや衣食に窮せず、仕事に追われぬ芸術家と科学者が、それぞれの製作と研究とに没頭している時の特殊な心的状態は、その間になんらの区別をも見いだしがたいように思われる。しかしそれだけのことならば、あるいは芸術家と科学者のみに限らぬかもしれない・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・柳橋は動しがたい伝説の権威を背負っている。それに対して自分は艶かしい意味においてしん橋の名を思出す時には、いつも明治の初年返咲きした第二の江戸を追想せねばならぬ。無論、実際よりもなお麗しくなお立派なものにして憬慕するのである。 現代・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・雁の数は七十三羽、蘆は固より数えがたい。籠ランプの灯を浅く受けて、深さ三尺の床なれば、古き画のそれと見分けのつかぬところに、あからさまならぬ趣がある。「ここにも画が出来る」と柱に靠れる人が振り向きながら眺める。 女は洗えるままの黒髪を肩・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・鏡のうちに永く停まる事は天に懸る日といえども難い。活ける世の影なればかく果敢なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・特に数学に入るか哲学に入るかは、私には決し難い問題であった。尊敬していた或先生からは、数学に入るように勧められた。哲学には論理的能力のみならず、詩人的想像力が必要である、そういう能力があるか否かは分らないといわれるのである。理においてはいか・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・だけを附記しておこう。そうした麻酔によるエクスタシイの夢の中で、私の旅行した国々のことについては、此所に詳しく述べる余裕がない。だがたいていの場合、私は蛙どもの群がってる沼沢地方や、極地に近く、ペンギン鳥のいる沿海地方などを彷徊した。それら・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・川の水が涸れないと、川の中の発電所の仕事はひどくやり難い。いや、殆んど出来ない。一冬で出来上らないと、春、夏、秋を休んで、又その次の冬でないと仕事が出来ない。 一冬で、巨大な穴、数万キロの発電所の掘鑿をやるのには、ダイナマイトも坑夫も多・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ 名状しがたい表情が彼の顔を横切った。とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍の腕へ口を持って行った。 彼は、うまそうにそれを食い始めた。 もし安岡が立っているか、うずくまっているかしたら彼は倒れたに違いなかった。が、幸いに・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・実にありがたい」 吉里は口にこそ最後の返辞をしたが、心にはまだ諦めかねた風で、深く考えている。 西宮は注ぎおきの猪口を口へつけて、「おお冷めたい」「おや、済みません、気がつかないで。ほほほほほ」と、吉里は淋しく笑ッて銚子を取り上・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・暗の閾から朧気な夢が浮んで、幸福は風のように捕え難い。そこで草臥た高慢の中にある騙された耳目は得べき物を得る時無く、己はこの部屋にこの町に辛抱して引き籠っているのだ。世間の者は己を省みないのが癖になって、己を平凡な奴だと思っているのだ。(家・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫