・・・――しかし、貴方がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」「可哀そうに、これでも少しは信心気のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日にも――」「信心気でございますかな。商売気でございますかな。」・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは皆木や石の偶像です。まことの神、まことの天主はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈る・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・真暗ななかに、ぼくの家だけがたき火のように明るかった。顔までほてってるようだった。何か大きな声でわめき合う人の声がした。そしてポチの気ちがいのように鳴く声が。 町の方からは半鐘も鳴らないし、ポンプも来ない。ぼくはもうすっかり焼けてしまう・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・懐ろの所に僕がたたんでやった「だまかし船」が半分顔を出していた。僕は八っちゃんが本当に可愛そうでたまらなくなった。あんなに苦しめばきっと死ぬにちがいないと思った。死んじゃいけないけれどもきっと死ぬにちがいないと思った。 今まで口惜しがっ・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の芸妓連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ兀の爺さんが、肥った若い妓にしなだれたのか、浅葱の襟をしめつ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ この、茸―― 慌しいまでに、一樹が狂言を見ようとしたのも、他のどの番組でもなく、ただこれあるがためであろう、と思う仔細がある。あたかも一樹が、扇子のせめを切りながら、片手の指のさきで軽く乳のあたりと思う胸をさすって、返す指で、左の・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・女としてはからだがたくまし過ぎるけれど、さりとて決して角々しいわけではない。白い女の持ち前で顔は紅に色どってあるようだ。口びるはいつでも「べに」をすすったかとおもわれる。沢山な黒髪をゆたかに銀杏返しにして帯も半襟も昨日とは変わってはなやかだ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・女親が少しむずかしやだという評判だけど、そのむずかしいという人がたいへんお前を気に入ってたっての懇望でできた縁談だもの、いられるもいられないもないはずだ。人はみんな省作さんは仕合せだ仕合せだと言ってる、何が不足で厭になったというのかい。我儘・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 二 僕はその夕がた、あたまの労れを癒しに、井筒屋へ行った。それも、角の立たないようにわざと裏から行った。「あら、先生!」と、第一にお貞婆さんが見つけて、立って来た。「こんなむさ苦しいところからおいでんでも――」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。私自身の経験によっても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫