・・・夏の夕には縁の下から大な蟇が湿った青苔の上にその腹を引摺りながら歩き出る。家の主人が石菖や金魚の水鉢を縁側に置いて楽しむのも大抵はこの手水鉢の近くである。宿の妻が虫籠や風鈴を吊すのもやはり便所の戸口近くである。草双紙の表紙や見返しの意匠なぞ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・レデーは私が払っておきますといって黒い皮の蟇口から一ペネー出して切符売に渡した。乗合は少ない。向側に派出ななりをしている若い女が乗っている。すると我輩の随行しているレデーが突然あなたはメリー・コレリのマスタークリスチアンを御読みなさいました・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・すると花の列のうしろから、一ぴきの茶いろの蟇が、のそのそ這ってでてきました。タネリは、ぎくっとして立ちどまってしまいました。それは蟇の、這いながらかんがえていることが、まるで遠くで風でもつぶやくように、タネリの耳にきこえてきたのです。 ・・・ 宮沢賢治 「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」
・・・さっきから一心に跡けて来た巨きな、蟇の形の足あとはなるほどずうっと大学士の足もとまでつづいていてそれから先ももっと続くらしかったがも一つ、どうだ、大学士の銀座でこさえた長靴のあともぞろっとついていた。「こ・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・ 一疋の蟇がそこをのそのそ這って居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。 それは早くもその蟇の語を聞いたからです。「鴾の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧くはないんだ。 桃色のペラペラの寒天でできているんだ。いい天気・・・ 宮沢賢治 「若い木霊」
・・・ 愛が風呂場で石鹸箱をタウルに包んで居る間に、禎一は二階へ蟇口をとりに登った。彼は軈て、ドタドタ勢よく階子をかけ降りざま、玄関に出た。「小銭がなあいよ」 愛は、「偉い元気!」と笑い乍ら、茶箪笥の横にあった筈の自分の銀貨入・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・何かしらと思ってあともどりをして見ると、蟇口を忘れたんだった。「のんきな奴だ!」と云ってしまった。しばらく歩いて見たが電車にがたがたゆすぶられるのもと思ってお師匠さんのところへ行ってしまった。「マア、随分この頃はお見限りでしたネ、貴方の・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・ 翁が特に愛していた、蝦蟇出という朱泥の急須がある。径二寸もあろうかと思われる、小さい急須の代赭色の膚に Pemphigus という水泡のような、大小種々の疣が出来ている。多分焼く時に出来損ねたのであろう。この蝦蟇出の急須に絹糸の切屑の・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・先生は蝦蟇と不景気を争う。この道徳の上に立つ教育主義は無垢なる天人を偽善の牢獄に閉じこむ。人格の光にあらず、霊のひらめきにあらず、人生の暁を彩どる東天の色は病毒の汚濁である。 日本民族が頭高くささぐる信条は命を毫毛の軽きに比して君の馬前・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫