・・・ そして、あんなにデマを飛ばしていたこの人は寂しい人だったんだ、寂しがり屋だったんだと、ポソポソ不景気な声で呟いていた。 新聞に出ている武田さんの写真は、しかしきっとして天の一角を睨んでいた。・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・友は東京を不快がりました。そして京都のよかったことを云い云いしました。私にも少くともその気持に似た経験はありました。またやって来た々直ぐ東京が好きになるような人は不愉快です。然し私は友の言葉に同意を表しかねました。東京にもまた別種のよさがあ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 永年の繁盛ゆえ、かいなき茶店ながらも利得は積んで山林田畑の幾町歩は内々できていそうに思わるれど、ここの主人に一つの癖あり、とかく塩浜に手を出したがり餅でもうけた金を塩の方で失くすという始末、俳諧の一つもやる風流気はありながら店にすわっ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 河は、海峡よりはもっと広いひろがりをもって海のように豊潤に、悠々と国境を流れている。 対岸には、搾取のない生産と、新しい社会主義社会の建設と、労働者が、自分たちのための労働を、行いうる地球上たった一つのプロレタリアートの国があった・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・くず湯に入るべき白き砂糖のなかりければ、老の足のたどたどしくも母屋がり行きもどりせしとは問わでも知らるるに、ここらのさびしさ、人の優しさ目のあたり見ゆ。ただし今の世の風に吹かれたる若き人はこうもあらぬなるべし。 かくてくず湯も成りければ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・眼をたるませどうだ山村の好男子美しいところを御覧に供しようかねと撃て放せと向けたる筒口俊雄はこのごろ喫み覚えた煙草の煙に紛らかしにっこりと受けたまま返辞なければ往復端書も駄目のことと同伴の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるあ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「ええ、虫は鳥などのように酸素を欲しがりませんからナ」 問を掛けた生徒は、つと教室を離れて、窓の外の桃の樹の側に姿を顕した。「ア、虫を取りに行った」 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間も・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・くずおれておかあさんはひざをつき、子どもをねかしてその上を守るように自分の頭を垂れますと、長い毛が黒いベールのように垂れ下がりました。 しかして両手をさし出してだまったなりでいのりました。子どもの額からは苦悶の汗が血のしたたりのように土・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・をとろうと思って、先生の座談はとても面白い、ちょっと筆記させていただきます、と言って手帖を出したら、それが、いたく先生のお気に召して、それからは、ややもすれば、坐り直してゆっくりした口調でものを言いたがり、私が手帖を出さないと、なんともいえ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・套的に慣用されて来た技巧であって、それがさまざまな違った着物を着て出現しているに過ぎないものであって、こういうことはまた、自分自身の頭を持って生まれることを忘れた三流以下の監督などが、すぐにまねをしたがり、またある程度まではだれでもまねので・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫