・・・が、しまいには彼も我を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎の取りなしを機会にして、左近の同道を承諾した。まだ前髪の残っている、女のような非力の求馬は、左近をも一行に加えたい気色を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・また常子夫人の発見したる忍野氏の日記に徴するも、氏は常に奇怪なる恐迫観念を有したるが如し。然れども吾人の問わんと欲するは忍野氏の病名如何にあらず。常子夫人の夫たる忍野氏の責任如何にあり。「それわが金甌無欠の国体は家族主義の上に立つものな・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕を押した。 書記の今西はその響に応じて、心もち明けた戸の後から、痩せた半身をさし延ばした。「今西君。鄭君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出でを願いますと。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・どうして、この創造的精力の奇怪な作用を、可能視なさる事が出来ましょう。それほど、私が閣下の御留意を請いたいと思う事実には不可思議な性質が加わっているのでございます。ですから、私は以上のお願いを敢て致しました。猶これから書く事も、あるいは冗漫・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・帳場はあざ笑って脚の立たない馬は、金を喰う機械見たいなものだといった。そして竹箆返しに跡釜が出来たから小屋を立退けと逼った。愚図愚図していると今までのような煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ倶知安からでも頼んで処分・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・と笠井は口早にそこに来合せた仔細と、丁度いい機会だから折入って頼む事がある旨をいいだした。仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとんとさせて火傷の方の半面を平手で・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とが交る交る襲って来た。不安が沈静に代る度にクララの眼には涙が湧き上った。クララの処女らしい体は蘆の葉のように細かくおののいていた。光りのようなその髪もまた細かに震えた。クララの手は自らアグネスの手・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・破壊ということに対して人間の抱いている奇怪な興味。小さいながらその光景は、そうした興味をそそり立てるだけの力を持っていた。もっと激しく、ありったけの瓶が一度に地面に散らばり出て、ある限りが粉微塵になりでもすれば…… はたしてそれが来た。・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ 今椅子に掛けている貨物は、潜水器械というものを身に装った人間に似ていて、頗る人間離れのした恰好の物である。怪しく動かない物である。言わば内容のない外被である。ある気味の悪い程可笑しい、異様な、頭から足まで包まれた物である。 フレン・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正を試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在に・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
出典:青空文庫