・・・曳舟の機械の響が両岸に反響しながら、次第に遠くなって行く。 わたくしは年もまさに尽きようとする十二月の薄暮。さながら晩秋に異らぬ烈しい夕栄の空の下、一望際限なく、唯黄いろく枯れ果てた草と蘆とのひろがりを眺めていると、何か知ら異様なる感覚・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・斯くの如き奇怪なる人物が銀座街上に跋扈していようとは、僕年五十になろうとする今日まで全く之を知る機会がなかったからである。 彼等は世に云う無頼の徒であろう。僕も年少の比吉原遊廓の内外では屡無頼の徒に襲われた経験がある。千束町から土手に到・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・従来酒は嫌な上に女の情というものを味う機会がなかったので彼は唯働くより外に道楽のない壮夫であった。其勤勉に報うる幸運が彼を導いて今の家に送った。彼は養子に望まれたのである。其家は代々の稼ぎ手で家も屋敷も自分のもので田畑も自分で作るだけはあっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・この型を以て未来に臨むのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で拵えた器に盛終せようと、あらかじめ待ち設けると一般である。器械的な自然界の現象のうち、尤も単調な重複を厭わざるものには、すぐこの型を応用して実生活の便宜を計る事が出来るかも知れな・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・けれどもまず諸君よりもそんな方面に余計頭を使う余裕のある境遇におりますから、こういう機会を利用して自分の思ったところだけをあなた方に聞いていただこうというのが主眼なのです。どうせあなた方も私も日本人で、現代に生れたもので、過去の人間でも未来・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・またどういう機会からであったか、今は思い出せないが、私は早くからメーン・ドゥ・ビランに非常に興味を有っていた。しかし彼自身の著書を手に入れることは、困難であった。京都大学へ来てから、学校へ、ナヴィルの出版した Oeuvres indites・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・たとえば、人間の一人々々が、誰にも云わず、書かずに、どの位多くの秘密な奇怪な出来事を、胸に抱いたまま、或は忘れたまま、今までにどの位死んだことだろう。現に私だって今ここに書こうとすることよりも百倍も不思議な、あり得べからざる「事」に数多く出・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・お前、機械を片附けといて呉れよ。俺が仕度して来るから」「そうかい」 秋山は見張りへ、小林は鑿を担いで鍛冶小屋へ、それぞれ捲上の線に添うて昇って行った。何しろ、兎に角火に当らないとやり切れないのであった。 ライナーの爆音が熄むと、・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・数ヶ月の間、私の声帯はほとんど運動する機会がなかった。また同様に鼓膜も、極めて微細な震動しかしなかった。空気――風――と光線とは誰の所有に属するかは、多分、典獄か検事局かに属するんだろう――知らなかったが、私達の所有は断乎として禁じられてい・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
出典:青空文庫