・・・「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。「今夜ですか?」「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」 ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を利き始めました。しかもその声がどうしても、妙子のような少女とは思われない、荒々しい男の声なのです。「いや、おれはお前の願いなぞは聞かない・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・「同じ道具でも、ああ云う物は、つぶしが利きやす。」「質に置いたら、何両貸す事かの。」「貴公じゃあるまいし、誰が質になんぞ、置くものか。」 ざっと、こんな調子である。 するとある日、彼等の五六人が、円い頭をならべて、一服や・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利きませんでした。 これにはさすがの鬼どもも、呆れ返ってしまったのでしょう。もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階の下に引き据えなが・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・とてもまやかしは利きませんからな。いくら自分で、自分の作品を賞め上げたって、現に価値が測定器に現われるのだから、駄目です。無論、仲間同志のほめ合にしても、やっぱり評価表の事実を、変える訳には行きません。まあ精々、骨を折って、実際価値があるよ・・・ 芥川竜之介 「MENSURA ZOILI」
・・・「その朝でさえ『三月三日この池より竜昇らんずるなり』の建札は、これほどの利き目がございましたから、まして一日二日と経って見ますと、奈良の町中どこへ行っても、この猿沢の池の竜の噂が出ない所はございません。元より中には『あの建札も誰かの悪戯・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ すぐそばで気息せき切ってしみじみといわれるお婆様の声を私は聞きました。妹は頭からずぶ濡れになったままで泣きじゃくりをしながらお婆様にぴったり抱かれていました。 私たち三人は濡れたままで、衣物やタオルを小脇に抱えてお婆様と一緒に家の・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・その内に段々夜吠える声に聞き馴れて、しまいには夜が明けると犬のことを思い出して「クサカは何処に居るかしらん」などと話し合うようになった。 このクサカという名がこういう風に初めてこの犬に附けられた。稀には昼間も木立の茂った中にクサカの姿が・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・昨夜は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩くり身体を延・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、皆、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望もかなうし、そうやってお身体も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんで・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
出典:青空文庫