・・・ままよ、面倒くさい口を利くくらいなら、いっそ食べずにおこうと思うわけ、そしてそんな状態が続けば、しまいには口を利きたくても唇が動かなくなるのです。そうして、やっと豊橋の近くまで来た時は、もう一歩も動けず、目の前は真っ白、たまりかねて線路工夫・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・それでやっと危機を切り抜けた。店で承知でやらすならともかく、女給たちに勝手にそんな真似をされたら、もうそのカフェは駄目になると、あとで前例も聞かされた。 女給が変ると、客種も変り、新聞社関係の人がよく来た。新聞記者は眼つきが悪いからと思・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 喬はそんな話を聞きながら、頭ではS―という男の話にきいたある女の事を憶い浮かべていた。 それは醜い女で、その女を呼んでくれと名を言うときは、いくら酔っていても羞しい思いがすると、S―は言っていた。そして着ている寝間着の汚いこと、そ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・辰弥の耳は逸早く聞きつけて振り返りぬ。欄干にあらわれたるは五十路に近き満丸顔の、打見にも元気よき老人なり。骨も埋もるるばかり肥え太りて、角袖着せたる布袋をそのまま、笑ましげに障子の中へ振り向きしが、話しかくる一言の末に身を反らせて打ち笑いぬ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と、私は持ち主の樋口に聞きますと、樋口は黙ってうなずいて軽くため息をしました。 私が鸚鵡を持って来たので、ねそべっていた政法の二人ははね起きました、「どうした」と鷹見は鸚鵡のかごと私の顔を見比べて、しかも笑いながら、聞きますから、「・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・「ついてはご自身で返事書きたき由仰せられ候まま御枕もとへ筆墨の用意いたし候ところ永々のご病気ゆえ気のみはあせりたまえどもお手が利き候わず情けなき事よと御嘆きありせめては代筆せよと仰せられ候間お言葉どおりを一々に書き取り申し候 必・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ 全体磯吉は無口の男で又た口の利きようも下手だがどうかすると啖火交りで今のように威勢の可い物の言い振をすることもある、お源にはこれが頗る嬉しかったのである。然しお源には連添てから足掛三年にもなるが未だ磯吉は怠惰者だか働人だか判断が着かん・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 二 彼の問いと危機 日蓮は太平洋の波洗う外房州の荒れたる漁村に生まれた。「日蓮は日本国東夷東条安房国海辺旃陀羅が子也」と彼は書いている。今より七百十五年前、後堀川天皇の、承久四年二月十六日に、安房ノ国長狭郡東条に貫・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・その声を聞きつつ何か勝利感に似たものをハッキリと覚えている。 読書は自信感を与えるものである。読書しないでいると内部が空虚になっていく。読書しない青年には有望な者はいない。天才はたとい課業の読書は几帳面でないまでも、図書館には籠って勉強・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・人生の遭逢は幸福であるとともに一つの危機である。この危機を恐れるならば、他人に対して淡泊枯淡あまり心をつながずに生きるのが最も賢いが、しかしそれではこの人生の最大の幸福、結実が得られないのであるならば、勇ましくまともにこの人生の危機にぶつか・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
出典:青空文庫