・・・「どうかなさいましたか。」と訊く。返辞が無い。「気色が悪いのじゃなくて。」とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、「何とも無い。」 附き穂が無いという返辞の仕方だ。何とも無いと云われても、どうも何か有るに違い無い。内・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・一体源三は父母を失ってから、叔母が片付いている縁によって今の家に厄介になったので、もちろん厄介と云っても幾許かの財産をも預けて寄食していたのだからまるで厄介になったという訳では無いので、そこで叔母にも可愛がらるればしたがって叔父にも可愛がら・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・少年は今はもう羨みの色よりも、ただ少年らしい無邪気の喜色に溢れて、頬を染め目を輝かして、如何にも男の児らしい美しさを現わしていた。 それから続いて自分は二尾のセイゴを得たが、少年は遂に何をも得なかった。 時は経った。日は堤の陰に落ち・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・というと、少年は急に悲しそうな顔をして気色を曇らせたが、 でも僕には鮒のほかのものは釣れそうに思えなかったからネ。お相撲さんの舟に無銭で乗せてもらって往還りして彼処で釣ったのだよ。 無銭で乗せてもらっての一語は偶然にその実際を語・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み上り誠恐誠惶詞なきを同伴の男が助け上げ今日観た芝居咄を座興とするに俊雄も少々の応答えが出来夜深くならぬ間と心むずつけども同伴の男が容易に立つ気色なければ大吉が三十年来これを商標と磨・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・北側の屋根や庭に降った雪は凍って、連日溶くべき気色もない。氷柱は二尺、三尺に及ぶ。お島が炉辺へ行って子供に牛乳をくれようとすると、時にはそれが淡い緑色に凍って、子供に飲ませることも出来ない。台処の流許に流れる水は皆な凍りついた。貯えた野菜ま・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・やがてあちらで藤さんが帯を解く気色がする。章坊は早く小さな鼾になる。自分は何とはなしに寝入ってしまうのが惜しい。「ね、小母さん」とふたたび話しかける。「え?」と、小母さんは閉じていた目を開ける。「あの、いったい藤さんはどうした人・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・そのころ高田の馬場の喫茶店に、兄が内心好いている女の子がありましたが、あまり旗色がよくないようで、兄は困って居りました。それでも、兄は誇の高いお人でありますから、その女の子に、いやらしい色目を使ったり、下等にふざけたりすることは絶対にせず、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・かくては、襖の蔭で縫いものをしている家の者に迄あなどられる結果になるやも知れぬという、けち臭い打算から、私は友人を屋外に誘い出し、とにもかくにも散策を試み、それでもやはり私の旗色は呆れる程に悪く、やりきれず、遂には、その井の頭公園の池のほと・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・島は、船を迎える気色が無い。ただ黙って見送っている。船もまた、その島に何の挨拶もしようとしない。同じ歩調で、すまして行き過ぎようとしているのだ。島の岬の燈台は、みるみる遠く離れて行く。船は平気で進む。島の陰に廻るのかと思って少し安心していた・・・ 太宰治 「佐渡」
出典:青空文庫