・・・綱利は奇特の事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り上げなかった。 求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎の初七日をすますと、もう暖国の桜は散り過ぎた熊本の城下を後にした。 一 津崎左近は助太・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の為よりも衰弱の為に死んだのであろう。その死の前後の記憶だけは割り合にはっきりと残っている。 危篤の電報でも来た為であろう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乗り、本所から芝まで駈・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・おお、姫神――明神は女体にまします――夕餉の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言が一致して、裸体の白い娘でない、御供を残して皈ったのである。 蒼ざめた小男は、第二の石段の上へ出た。沼の干たような・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・(変じゃあないか、女房(それが御祈祷をした仁右衛門爺さんの奇特でございます。沢井様でも誰も地震などと思った方はないのでして、ただ草を刈っておりました私の目にばかりお居間の揺れるのが見えたのでございます。大方神様がお寄んなすった験なん・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 実はなくなりました父が、その危篤の時、東京から帰りますのに、とこの町から発信した……偶とそれを口実に――時間は遅くはありませんが、目口もあかない、この吹雪に、何と言って外へ出ようと、放火か強盗、人殺に疑われはしまいかと危むまでに、さん・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・が、そんな、実は、しおらしいとか、心入れ、とかいう奇特なんじゃなかったよ。懺悔をするがね、実は我ながら、とぼけていて、ひとりでおかしいくらいなんだよ。月夜に提灯が贅沢なら、真昼間ぶらで提げたのは、何だろう、余程半間さ。 というのがね、先・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・参詣人が来ると殊勝な顔をしてムニャムニャムニャと出放題なお経を誦しつつお蝋を上げ、帰ると直ぐ吹消してしまう本然坊主のケロリとした顔は随分人を喰ったもんだが、今度のお堂守さんは御奇特な感心なお方だという評判が信徒の間に聞えた。 椿岳が浅草・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この貴重な秘庫を民間奇特者に解放した一事だけでも鴎外のような学術的芸術的理解の深い官界の権勢者を失ったのは芸苑の恨事であった。 鴎外は早くから筆蹟が見事だった。晩年には益々老熟して蒼勁精厳を極めた。それにもかかわらず容易に揮毫の求め・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・勢い霊玉の奇特や伏姫神の神助がやたらと出るので、親兵衛武勇談はややもすれば伏姫霊験記になる。他の犬士の物語と比べて人間味が著しく稀薄であるが、殊に京都の物語は巽風・於菟子の一節を除いては極めて空虚な少年武勇伝である。 本来『八犬伝』は百・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 六 医者が今日日の暮までがどうもと小首をひねった危篤の新造は、注射の薬力に辛くも一縷の死命を支えている。夜は十二時一時と次第に深けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内の者二人と雇い婆と、合わせ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫