・・・それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目も判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠なども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きい雁であった・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・展覧会が開かれても、案内を受けて参観した人は極めて小部分に限られて、シカモ多くは椿岳を能く知ってる人たちであったから、今だにその画をも見ずその名をすらも知らないものが決して少なくないだろう。先年或る新聞に、和田三造が椿岳の画を見て、日本にも・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・就中椿岳が常住起居した四畳半の壁に嵌込んだ化粧窓は蛙股の古材を両断して合掌に組合わしたのを外框とした火燈型で、木目を洗出された時代の錆のある板扉の中央に取附けた鎌倉時代の鉄の鰕錠が頗る椿岳気分を漂わしていた。更にヨリ一層椿岳の個性を発揮した・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして、さっそく龍雄をその家へやることに決めました。 いよいよ家から出て、他人の中に入るのだと思うと、いくらわんぱく者でもかわいそうになって、もう二、三日しか家にいないというので、両親はいろいろごちそうをして龍雄に食べさせたりしました。・・・ 小川未明 「海へ」
・・・「じゃ、話だけでも決めておいていただいたら……」「え、それは私も言ったんですがね、向うの言うのじゃ、決めておくのはいいが、お互いにまたどういう思いも寄らない故障が起らないとも限らないから、まあもう少しとにかく待ってくれって、そう言う・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 汽車の中は、依然として混雑を極めていた。彼女はやはり窓から降りなければならなかった。「大丈夫ですか。降りる方がむつかしいですよ」「でも、やってみます。荷物お願いします」 彼女は窓の上に手を掛けて、機械体操の要領で足をそろえ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ 久助爺はけろりとした顔つきでこう繰返すので、耕吉は気乗りはしなかったが、結局これに極めるほかなかった。…… 月々十円ばかしの金が、借金の利息やら老父の飲代やらとして、惣治から送られていたのであった。それを老父は耕吉に横取りされたと・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・どちらへ出るかはその日その日の気持が決めた。 しかし、いま私の話は静かな山径の方をえらばなければならない。 吊橋を渡ったところから径は杉林のなかへ入ってゆく。杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。ゴチック建築のな・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・慮ない仲なれど、軍夫を思い立ちてより何事も心に染まず、十七日の晩お絹に話しそこねて後はわれ知らずこの女に気が置かれ相談できず、独りで二日三日商売もやめて考えた末、いよいよ明日の朝早く広島へ向けて立つに決めはしたものの餅屋の者にまるっきり黙っ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・これは直観主義でも決められない。 リップスによれば、この際主観的制約を去って、客観的事実の制約にしたがい、すなわち、受験は自分のであり、火災は他人のであるということを離れ、どちらも自分のことであるとして考えて決めよというのだ。それなら火・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫