・・・それは昔この道路の水準がずっと低かった頃に砂利をつめた土俵を並べて飛石代りにしてあった、それをそのまま後に土で埋めて道路面を上げたのであるが、砂利が周囲の湿気を吸収するために、その上に当るところだけ余計に乾燥して白く見えるとの事であった。し・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・書物を開いて、ものの半ページも読んで行くうちに、いろいろの疑問や思いつきが雲のごとくむらがりわき起こって、そのほうの始末に興味を吸収されてしまうような場合が多かったのではないかと想像される。 こういう種類の頭脳に対しては書籍は一種の点火・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・これはたぶんあとの母音は振動数の多い上音に富むため、またそういう上音はその波長の短いために吸収分散が多く結局全体としての反響の度が弱くなるからではないかと考えてみた事がある。ともかくもこの事と、鸚鵡石で鉦や鈴や調子の高い笛の音の反響・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・だんだん見慣れるに従って頭の中の三毛の記憶の影像が変化して眼前の生きたものに吸収され同化されて行く不思議な心理過程に興味を感じた。われわれが過去の記憶の重荷に押しつぶされずに今日を享楽して行けるのは単に忘れるという事のおかげばかりではなくま・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・ 私は十八年も前に、この温和な海を渡って、九州の温泉へ行ったときのことを思いだした。私は何かにつけてケアレスな青年であったから、そのころのことは主要な印象のほかは、すべて煙のごとく忘れてしまったけれど、その小さい航海のことは唯今のことの・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・人間が懺悔して赤裸々として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの初々しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・せんで竹の皮をむき、ふしの外のでっぱりをけずり、内側のかたい厚みをけずり、それから穴をあけて、柄をつけると、ぶかっこうながら丈夫な、南九州の農家などでよくつかっている竹びしゃくが出来あがる。朝めし前からかかって、日に四十本をつくるのだが、こ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・わたくしは旧習に晏如としている人たちに対する軽い羨望嫉妬をさえ感じないわけには行かなかった。 三月九日の火は、事によるとこの昔めいた坊主頭の年寄をも、廓と共に灰にしてしまったかも知れない。 栄子と共にその夜すみれの店で物を食べた踊子・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・その日初めて聞き知ったのである。 吉原の遊里は今年昭和甲戌の秋、公娼廃止の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。 江戸のむかし、吉原・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・もし以上の如き珍々先生の所論に対して不同意な人があるならば、請う試みに、旧習に従った極めて平凡なる日本人の住家について、先ずその便所なるものが縁側と座敷の障子、庭などと相俟って、如何なる審美的価値を有しているかを観察せよ。母家から別れたその・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫