・・・けれども、江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失うと共に盲目になった。そして栄華の昔には洒落半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであろう。その昔、芝居茶屋の混雑、お浚い・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・いかほど旧習を墨守しようと欲しても到底墨守することの出来ない事がある。おおよそ世の流行は馴るるに従って、其の始め奇異の感を抱かせたものも、姑くにして平凡となるのが常である。況や僕は既にわかくはない。感激も衰え批判の眼も鈍くなっている。箍が弛・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・「そら、落ち行く先きは九州相良って云うじゃないか」「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」「困った男だな」「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫も僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・見る間に三万坪に余る過去の一大磁石は現世に浮游するこの小鉄屑を吸収しおわった。門を入って振り返ったとき、憂の国に行かんとするものはこの門を潜れ。永劫の呵責に遭わんとするものはこの門をくぐれ。迷惑の人と伍せんとするものはこの門・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・不思議にも、その小さい物が、この闇夜に漏れて来る一切の光明を、ことごとく吸収して、またことごとく反射するようである。 爺いさんは云った。「なんだか知っているかい。これは青金剛石と云う物だ。世界に二つと無い物で、もう盗まれてから大ぶの年が・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・この学校は中学の内にてもっとも新なるものなれば、今日の有様にて生徒の学芸いまだ上達せしにはあらざれども、その温和柔順の天稟をもって朝夕英国の教師に親炙し、その学芸を伝習し、その言行を聞見し、愚痴固陋の旧習を脱して独立自主の気風に浸潤すること・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・その内で世間の評判を聞くと血達磨の九州旅行が最も受けが善くて、この徒歩旅行は最も受けが悪いようであった。しかしそんな評は固より当てにならぬ。むしろ排斥せられたのがこの紀行の旨い所以ではあるまいか。血達磨の紀行には時として人を驚かすような奇語・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・前には九州の青い山が手の届くほど近くにある。その山の緑が美しいと来たら、今まで兀山ばっかり見て居た目には、日本の山は緑青で塗ったのかと思われた。ここで検疫があるのでこの夜は碇泊した。その夜の話は皆上陸後の希望ばかりで、長く戦地に居た人は、早・・・ 正岡子規 「病」
・・・面白かったねえ。九州からまるで一飛びに馳けて馳けてまっすぐに東京へ来たろう。そしたら丁度僕は保久大将の家を通りかかったんだ。僕はね、あの人を前にも知っているんだよ。だから面白くて家の中をのぞきこんだんだ。障子が二枚はずれてね『すっかり嵐にな・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・消化吸収排泄循環生殖と斯う云うことをやる器械です。死ぬのが恐いとか明日病気になって困るとか誰それと絶交しようとかそんな面倒なことを考えては居りません。動物の神経だなんというものはただ本能と衝動のためにあるです。神経なんというのはほんの少しし・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
出典:青空文庫