・・・大津は何と思ったかその旧師を招かなかった。「貴様はどうじゃ?」「大津の方からこの頃は私を相手にせんようですから別に招もしません」「招んだって行くな。あんな軽薄な奴のとこに誰が行く馬鹿があるか。あんな奴にゃア黒田の娘でも惜い位だ!・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・ かくて濤声高き竜ノ口の海辺に着いて、まさに頸刎ねられんとした際、異様の光りものがして、刑吏たちのまどうところに、助命の急使が鎌倉から来て、急に佐渡へ遠流ということになった。 文永八年十月十日相模の依智を発って、佐渡の配所に向かった・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ この帰省中に日蓮は清澄山での旧師道善房に会って、彼の愚痴にして用いざるべきを知りつつも、じゅんじゅんとして法華経に帰するようにいましめた。日蓮のこの道善への弟子としての礼と情愛とは世にも美しいものであり、この一事あるによって私は日蓮を・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・そして、旧師に対するような態度がちっともなかった。運動をやっている者は、先生だって、誰だって悪いというような調子だ。傍で見ても小面が憎かった。彼は、三人のあとから、山の根の運び出した薪を散り/\に放り出してある畠のところまでついて来た。・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・地獄・極楽の蓑笠つけて、愛着・妄執の弓矢をはなさぬ姿は、はなはだものものしげである。漫然と遠くからこれをのぞめば、まことに意味ありげであるが、近づいて仔細にこれを見れば、なんでもないのである。 わたくしは、かならずしもしいて死を急ぐ者で・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・死の事大ちょうことは、太古より知恵ある人が建てた一種の案山子である、地獄・極楽の簑笠つけて、愛着・妄執の弓矢放さぬ姿は甚だ物々しげである、漫然遠く之を望めば誠とに意味ありげであるが、近づいて仔細に之を看れば何でもないのである。 私は必し・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・竜巻よ来い。弓矢、来い。氷山、来い。渦まく淵を恐れず、暗礁おそれず、誰ひとり知らぬ朝、出帆、さらば、ふるさと、わかれの言葉、いいも終らずたちまち坐礁、不吉きわまる門出であった。新調のその船の名は、細胞文芸、井伏鱒二、林房雄、久野豊彦、崎山兄・・・ 太宰治 「喝采」
・・・それが、私への一言の言葉もなく、急死した。私は、恥ずかしく思う。私の愛情の貧しさを恥ずかしく思うのである。おのれの愛への自惚れを恥ずかしく思うのである。その友人は、その御両親にさえ、一ことも、言わなかった。私でさえこんなに恥ずかしいのだから・・・ 太宰治 「思案の敗北」
・・・いちどは、こらしめのため、あなたを弓矢で傷つけて、人間界にかえしてあげましたが、あなたは再び烏の世界に帰る事を乞いました。神は、こんどはあなたに遠い旅をさせて、さまざまの楽しみを与え、あなたがその快楽に酔い痴れて全く人間の世界を忘却するかど・・・ 太宰治 「竹青」
・・・パウロに感謝だ、と長兄は九死に一生を得た思いのようであった。長兄は、いつも弟妹たちへの教訓という事を忘れない。それゆえ、まじめになってしまって、物語も軽くはずまず、必ずお説教の口調になってしまう。長兄には、やはり長兄としての苦しさがあるもの・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫