・・・……白い桔梗でへりを取った百畳敷ばかりの真青な池が、と見ますと、その汀、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。 お髪がどうやら、お召も・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・とそう言って、……いきなり鏡台で、眉を落して、髪も解いて、羽織を脱いでほうり出して、帯もこんなに(なよやかに、頭あの、蓮葉にしめて、「後生、内証だよ。」と堅く口止をしました上で、宿帳のお名のすぐあとへ……あの、申訳はありませんが、おなじくと・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・どこの家でもそうとはきまっていないが、親子と兄弟とは非常に感じの違うものである。兄には妻がありかつ年をとっている兄であるといよいよむずかしい。ことに省作の家は昔から家族のむずかしい習慣がある。 省作はだまって鎌をとぐ用意にかかる。兄はき・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・今では堀田伯の住邸となってる本所の故宅の庭園は伊藤の全盛時代に椿岳が設計して金に飽かして作ったもので、一木一石が八兵衛兄弟の豪奢と才気の名残を留めておる。地震でドウなったか知らぬが大方今は散々に荒廃したろう。(八兵衛の事蹟については某の著わ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・「おい、兄弟、もうよく話がわかった。俺たちは、みんな人間の仕打ちに対して不平をもっているのだ。しかし、まだ、これを子細に視察してきたものがない。だれかを、人間のたくさん住んでいる街へやって、検べさせてみたいものだ。そして、よくよく人間が・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・ その拍子に、粗末な鏡台が眼にはいった。背中を向けて化粧している女の顔がうつっていた。案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮膚がたるんでいると、一眼にわかった。いきなり宿帳の「三十四歳」を想い出した。それより若くは見えなかっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・彼女は化粧を直すため、鏡台の前で、ハンドバッグをあけるだろう。その中には仁丹の袋がはいっている。仁丹を口に入れて、ポリポリ噛みながら、化粧して、それから、ベッドへ行くだろう。パトロンの舌には半分融けかかった仁丹がいくつもくっつく……。しかし・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ その晩、道子は鏡台の傍をはなれなかった。掛けてははずし、はずしては掛け、しまいに耳の附根が痛くなった。 ――風邪を引いて、首にガーゼを巻いた時めたいに行けなかった――それが悲しかったのよ。でももういいわ。この女だってもう結婚するん・・・ 織田作之助 「眼鏡」
・・・私はSは両親も兄弟も親戚もない、不遇な男であることを想い出した。彼はたった一人の見送人である私を待ち焦れながら、雨の土砂降の中を銃剣を構えて、見張りの眼をピカピカ光らせていたのだ。言葉少く顔見合せながら、私達のお互いの心には瞬間、温く通うも・・・ 織田作之助 「面会」
・・・ その五人の兄弟のなかの一人であった彼は再びその大都会へ出て来た。そこで彼は学狡へ通った。知らない町ばかりであった。碁会所。玉突屋。大弓所。珈琲店。下宿。彼はそのせせこましい展望を逃れて郊外へ移った。そこは偶然にも以前住んだことのあ・・・ 梶井基次郎 「過古」
出典:青空文庫