・・・私は母の鏡台の前まで走りました。そして自分の青ざめた顔をうつしました。それは醜くひきつっていました。何故そこまで走ったのか――それは自分にも判然しません。その苦しさを眼で見ておこうとしたのかも知れません。鏡を見て或る場合心の激動の静まるとき・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 恋しき父母兄弟に離れ、はるばると都に来て、燃ゆるがごとき功名の心にむちうち、学問する身にてありながら、私はまだ、ほんのこどもでしたから、こういういたずらも四郎と同じ心のおもしろさを持っていたのです。 十幾本の鉤を凧糸につけて、その・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・しかし君臣となり、親子、夫婦、朋友、師弟、兄弟となった縁のかりそめならぬことを思い、対人関係に深く心を繋いで生きるならば、事あるごとに身に沁みることが多く考え深くさせられる。対人関係について淡白枯淡、あっさりとして拘泥せぬ態度をとるというこ・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ 曹長は、それから、彼の兄弟のことや、内地へ帰ってからどういう仕事をしようと思っているか、P村ではどういう知人があるか、自分は普通文官試験を受けようと思っているとか、一時間ばかりとりとめもない話をした。曹長は現役志願をして入営した。曹長・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・園子は朝起ると、食事前に鏡台の前に坐って、白粉をべったり顔にぬった。そして清三の朝飯の給仕をすますと、二階の部屋に引っこもって、のらくら雑誌を見たり、何か書いたりした。が、大抵はぐてぐて寝ていた。そして五時頃、会社が引ける時分になると、急に・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・そこで早速自分の所有のを出して見競べて視ると、兄弟かふたごか、いずれをいずれとも言いかねるほど同じものであった。自分のの蓋を丹泉の鼎に合せて見ると、しっくりと合する。台座を合せて見ても、またそれがために造ったもののようにぴたりと合う。いよい・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・乱雑に着物がぬぎ捨てられてある、女の部屋らしく、鏡台がすぐ側にあった。その小さい引出しが開けられたままになっていたり、白粉刷毛が側に転がっていた。その時女の廊下をくる音をきいた。彼は襖をしめた。 女は安来節のようなのを小声で歌いながら、・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟は二人末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関側の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・古い鏡台古い箪笥、そういう道具の類ばかりはそれでも長くあって、毎朝私の家の末子が髪をとかしに行くのもその鏡の前であるが、長い年月と共に、いろいろな思い出すらも薄らいで来た。 あの母さんの時代も、そんなに遠い過去になった。それもそのはずで・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・そこではさきほどの百姓の兄弟にあたる人が引き網をしていました。鳩は蘆の中にとまって歌いました。 その男も言いますには、「いやです。私は何より先に家で食うだけのものを作らねばなりません。でないと子どもらがひもじいって泣きます。あとの事・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
出典:青空文庫