・・・ 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷巫女の口を借りたる死霊の物語 ――盗人は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利けない。体も杉の根に縛られている。が、おれはその間に・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・と顔を伏せ、呻くような、歔欷なさるような苦しげの声で言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集っておのおの、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、罵り騒ぎ、あの人は死ぬる人・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・私は、かれの歿したる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視し、再読、三読、さらに持ち直して見つめたのだが、どうにも眼が曇って、ついには、歔欷の波うねり、一字をも読む能わず、四つに折り畳んで、ふところへ、仕舞い込んだものであるが、内心、塩で・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・そうして、くやしくて、みんな編輯長室のまえの薄暗い廊下でひしと一かたまりにかたまって、ことにも私、どうにもこうにも我慢ならず、かたわらの友人の、声しのばせての歔欷に誘われ、大声放って泣きました。あのときの一種崇高の感激は、生涯にいちどあるか・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・まりにもわが身にちかく、ひたと寄りそわれて仰天、不吉な程に大きな黒アゲハ、もしくは、なまあたたかき毛もの蝙蝠、つい鼻の先、ひらひら舞い狂い、かれ顔面蒼白、わなわなふるえて、はては失神せんばかりの烈しき歔欷。婆さん、しだいに慾が出て来て、あの・・・ 太宰治 「創生記」
・・・その日も、私は、市川の駅へふらと下車して、兄いもうと、という活動写真を見もてゆくにしたがい、そろそろ自身狼狽、歯くいしばっても歔欷の声、そのうちに大声出そうで、出そうで、小屋からまろび出て、思いのたけ泣いて泣いて泣いてから考えた。弱い、踏み・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・男も一緒に、たしかに、歔欷の声をもらしていた。「あなただけでも、強く生きるのだぞ。」そう言った。誰か、はっきりしない。まさか、父ではなかろう。浅草でわかれた、あの青年ではなかったかしら。とにかく、霧中の記憶にすぎない。はっきり覚醒して、みる・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ 道太はやっと安心して、病室を出ることができたが、しかし次の部屋まで来ると、にわかに兄の歔欷が聞こえたので、彼は思わず足が竦んでしまった。 それから兄の傍を離れるのに、また少し時間がかかった。そして子供のない兄の病床の寂しさを思いな・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・突然子供がしゃくり上げて泣くような高い歔欷の声が四辺の静寂を破った。「石川! イシカワ!」 いい加減心を乱されていた石川はあたふた病人の頭の方に駈けよった。「助けとくれ、ドーカ助けとくれ! 石川」 仰向いたまま食いつくように・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫