・・・帳場の和郎(彼れは所きらわず唾が寝言べこく暇に、俺ら親方と膝つきあわして話して見せるかんな。白痴奴。俺らが事誰れ知るもんで。汝ゃ可愛いぞ。心から可愛いぞ。宜し。宜し。汝ゃこれ嫌いでなかんべさ」といいながら懐から折木に包んだ大福を取出して・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・この本能が環境の不調和によって伸びきらない時、すなわちこの本能の欲求が物質的換算法によって取り扱われようとする時、そこにいわゆる社会問題なるものが生じてくるのだ。「共産党宣言」は暗黙の中にこの気持ちを十分に表現しているように見える。マルクス・・・ 有島武郎 「想片」
・・・茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙に毛氈を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢のついた見すぼらしい、母のない児の手を、娘さん――そのひとは、厭わしげもなく、・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・露が光るように、針の尖を伝って、薄い胸から紅い糸が揺れて染まって、また縢って、銀の糸がきらきらと、何枚か、幾つの蜻蛉が、すいすいと浮いて写る。――(私が傍って、鼻ひしゃげのその頃の工女が、茄子の古漬のような口を開けて、老い年で話すんです。そ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降った水の半分も落ちきらぬ内に、上げ潮の刻限になってしまう。上げ潮で河水が多少水口から突上るところへ更に雨が強ければ、立ちしか間にこの一区劃内に湛えてしまう。自分は水の心配をする・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 母は折角言うていったんは帰したものの、初めから危ぶんでいたのだから、再び出てきたのを見ては、もうあきらめて深く小言も言わない。兄はただ、「しようがないやつだなあ」 こう一言言ったきり、相変らず夜は縄をない昼は山刈りと土肥作りと・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「ほんとうは、三味線はきらい、踊りが好きだったの」「じゃア、踊って見るがいい」とは言ったものの、ふと顔を見合わせたら、抱きついてやりたいような気がしたのを、しつッこいと思わせないため、まぎらしに仰向けに倒れ、両手をうしろに組んだまま・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・貧乏咄をして小遣銭にも困るような泣言を能くいっていても、いつでもゾロリとした常綺羅で、困ってるような気振は少しもなかった。が、家を尋ねると、藤堂伯爵の小さな長屋に親の厄介となってる部屋住で、自分の書斎らしい室さえもなかった。緑雨のお父さんと・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・まだ、湖の上が鉛色に明けきらぬ、寒い朝、彼は、ついに首垂れたまま自然との闘争の一生を終わることになりました。 その日は、終日がんたちは、湖上に悲しみ泣き叫んでいました。そして、夜になると彼らの一群は、しばらく名残を惜しむように、低く湖の・・・ 小川未明 「がん」
・・・ 共産制度の世界に到達して、生産の豊富から、物資の潤沢をのみ夢むような輩は、尚お、心にブルジョアの、安逸と怠惰の念が抜けきらないからです。私達、真の無産者は、喜びを共にし、苦しみを共にし、永久に、平和な、そして自由な、青空の下に相抱いて・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
出典:青空文庫