・・・人の力を以て過去の事実を消すことの出来ない限り、人は到底運命の力より脱るゝことは出来ないでしょう。」 自分は握手して、黙礼して、此不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華かに夕の雲を染め、顧れば我運命論者は淋しき砂山の頂に立って沖・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・拾ったとか、失ったとか、落したとかいう事は多数の児童を集めていることゆえ常に有り勝で怪むに足ないのが、今突然この訴えに接して、自分はドキリ胸にこたえた。「貴所が気をつけんから落したのだ、待ておいで、今岩崎を呼ぶから」と言ったのは全然これ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・それ故に倫理学の研究は単に必要であるというだけでなく、真摯な人間である以上、境遇が許す限りは研究せずにはいられないはずの学問なのである。 五 根本問題の所在 この小さな紙幅に倫理学の根本問題を羅列することは不可能であ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・しかし一度発覚され、知れ渡った限りは、役目として、それを取調べなければならなかった。犯人をせんさくし出さなければ、役目がつとまらなかった。役目がつとまらないということは、自分の進級に関係し、頸に関係する重大なこと柄だった。 兵卒は、初年・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ お里が俯向いて、困惑しながらこう云っている…… 五 清吉は胸がドキリとした。「何でもない。下らないこった! 神経衰弱だ何でもありゃしない!」 彼はすぐ自分の想像を取消そうとした。けれども、今の想像はな・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・そこらの林や、立木が遠い山を中心に車窓の前をキリ/\廻転して行った。いつか、列車は速力をゆるめた。と、雪をかむった鉄橋が目前に現れてきた。「異状無ァし!」 鉄橋の警戒隊は列車の窓を見上げて叫んだ。「よろしい! 前進。」 そし・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・材料も吟味し、木理も考え、小刀も利味を善くし、力加減も気をつけ、何から何まで十二分に注意し、そして技の限りを尽して作をしても、木の理というものは一々に異う、どんなところで思いのほかにホロリと欠けぬものでは無い。君の熔金の廻りがどんなところで・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 一々に数え来れば其種類は限りもないが、要するに死其者の恐怖すべきではなくて、多くは其個個が有せる迷信・貪欲・愚癡・妄執・愛着の念を払い得難き性質・境遇等に原因するのである、故に見よ、彼等の境遇や性質が若し一たび改変せられて、此等の事情・・・ 幸徳秋水 「死生」
誰でもそうだが、田口もあすこから出てくると、まるで人が変ったのかと思う程、饒舌になっていた。八カ月もの間、壁と壁と壁と壁との間に――つまり小ッちゃい独房の一間に、たった一人ッ切りでいたのだから、自分で自分の声をきけるのは、・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・れかわりて今日は黒出の着服にひとしお器量優りのする小春があなたよくと末半分は消えて行く片靨俊雄はぞッと可愛げ立ちてそれから二度三度と馴染めば馴染むほど小春がなつかしく魂いいつとなく叛旗を翻えしみかえる限りあれも小春これも小春兄さまと呼ぶ妹の・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫