・・・慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候も見えないようでしたがな。――」 戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透かさず愛想の好い返事をした。「そうで・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と、ここで思ってるようなものじゃないですよ」と、義兄は私たちを励ますように言った。「それではひとつ予習をしてみるかな。……どうかね、滑稽じゃないかね?……お前も羽織を着て並んでみろ」と、私は少し酒を飲んでいた勢いで、父の羽織や袴をつけて・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・着いた翌日の夜。義兄と姉とその娘と四人ではじめてこの城跡へ登った。旱のためうんかがたくさん田に湧いたのを除虫燈で殺している。それがもうあと二三日だからというので、それを見にあがったのだった。平野は見渡す限り除虫燈の海だった。遠くになると星の・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・学資がなく学校も止めさせられ、ぼくは義兄の世話で月給十八円で或る写真工場につとめに出ました。母と共に二間の長屋に住んで。――ぼくは直ちに職場に組織を作り、キャップとなり、仕事を終えると、街で上の線と逢い、きっ茶店で、顔をこわばらせて、秘密書・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私はその二人の義兄という事になっているわけだが、しかし、義兄なんてものは、その家に就いて何の実権のあるわけはない。実権どころか、私は結婚以来、ここの家族一同には、いろいろと厄介をかけている。つまり、たのみにならぬ男なのだから、義妹や義弟たち・・・ 太宰治 「薄明」
・・・ 店では小僧がひとり、肉切庖丁をといでいる。「兄さんは?」「おでかけです。」「どこへ?」「寄り合い。」「また、飲みだな?」 義兄は大酒飲みである。家で神妙に働いている事は珍らしい。「姉さんはいるだろう。」・・・ 太宰治 「犯人」
・・・それはとにかく、自分の子供の時分のことである。義兄に当たる春田居士が夕涼みの縁台で晩酌に親しみながらおおぜいの子供らを相手にいろいろの笑談をして聞かせるのを楽しみとしていた。その笑談の一つの材料として芭蕉のこの辞世の句が選ばれたことを思い出・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・私の見た義兄は、珍しく透明な、いい頭をもっていて、世態人情の奥の底を見透していた人のように思われる。それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸なふうがあった。 郷里の親戚や知人の家へ行けば、今でも春田のかいた四君子や山水の絵の襖や・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
出典:青空文庫