・・・またある痕は、細長く深く切れ込み、古い本が紙魚に食い貫かれたあとのようになっている。 変な感じで、足を見ているうちにも青く脹れてゆく。痛くもなんともなかった。腫物は紅い、サボテンの花のようである。 母がいる。「あああ。こんなにな・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・終わって二人は朝飯を食いながら親父は低い声で、「この若者はよっぽどからだを痛めているようだ。きょうは一日そっとしておいて仕事を休ますほうがよかろう。」 弁公はほおばって首を縦に二三度振る。「そして出がけに、飯もたいてあるから勝手・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・「全世界の人悉くこの願を有ていないでも宜しい、僕独りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾の妻を与えよ我これを姦せん爾の子を与・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・何たる残刻無情の一語ぞ、自分は今もってこの一語を悔いている。しかしその時は自分もかれの変化があまり情けないので知らず知らずこれを卑しむ念が心のいずこかに動いていたに違いない。『あハハハハハハ』かれも笑った。 不平と猜忌と高慢とですご・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・私は悔いを感じない。人生に対し、真理に対し、恋愛に対し、私のうけたいのちと、おかれた環境とにおいては、充分に全力をあげて生きた気がする。 二十三歳で一高を退き、病いを養いつつ、海から、山へ、郷里へと転地したり入院したりしつつ、私は殉情と・・・ 倉田百三 「『出家とその弟子』の追憶」
・・・ そこには、中隊で食い残した麦飯が入っていた。パンの切れが放りこまれてあった。その上から、味噌汁の残りをぶちかけてあった。 子供達は、喜び、うめき声を出したりしながら、互いに手をかきむしり合って、携えて来た琺瑯引きの洗面器へ残飯をか・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 二人は、これまで、あまりに真面目で、おとなしかった自分達のことを悔いていた。出たらめに、勝手気まゝに振るまってやらなければ損だ。これからさき、一年間を、自分の好きなようにして暮してやろう。そう考えていた。 ――吉田は、防寒服を着け・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・ その夜若崎は、「もう失敗しても悔いない。おれは昔の怜悧者ではない。おれは明治の人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟は認めて下さることを疑わない」と、安心立命の一境地に立って心中に叫んだ。 ○・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ところが魚というのは、それは魚だからいさえすれば餌があれば食いそうなものだけれども、そうも行かないもので、時によると何かを嫌って、例えば水を嫌うとか風を嫌うとか、あるいは何か不明な原因があってそれを嫌うというと、いても食わないことがあるもん・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ N駅に出る狭い道を曲がった時、自動車の前を毎朝めしを食いに行っていた食堂のおかみさんが、片手に葱の束を持って、子供をあやしながら横切って行くのを見付けた。 前に、俺はそこの食堂で「金属」の仕事をしていた女の人と十五銭のめしを食って・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫