・・・あの若さで世の偽に欺かれたのを悔いたような処のあるのを面白く感じたと云った。そこで欺して己が手に入れて散々弄んだ揚句に糟を僕に投げてくれた。姿も心も変り果てて、渦巻いていた美しい髪の毛が死んだもののように垂れている化物にして、それを僕に授け・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・こんな主人に巻き添いなんぞ食いたくないから、みんなタオルやはんけちや、よごれたような白いようなものを、ぐるぐる腕に巻きつける。降参をするしるしなのだ。 オツベルはいよいよやっきとなって、そこらあたりをかけまわる。オツベルの犬も気が立って・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・「せきが出るな――せきの時は食べにくいもんだが、これなら他のものと違ってもつから、ほまちに食いなされ」 麦粉菓子を呉れる者があった。「寒さに向って、体気をつけなんしょよ」と或る者は真綿をくれた。元村長をした人の後家のところで・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・ 欲しがって居たのにやらなかった、私のその時の行いをどれほど今となって悔いて居るだろう。 けれ共、甲斐のない事になって仕舞ったのである。 小さい飯事道具を一そろいそれも人形のわきに納められた。娘にならずに逝った幼児は大きく育って・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・教会流にマリアが「悔いあらため」、消極的、否定的に「きよきもの」となっていただけなら、どうして彼女が、第一に、甦ったイエスを見たという愛の幻想にとらわれたろう。彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひ・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・ 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がにじんで、それに乱れた髪の毛がこびり附いている。「ははあ、きょうも運動すると暑くなる日だな」と思う。木村の借家から電車の停留場まで七八町ある。・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ダントンがそれを食いたさに、椅子から転がり落ちたと云う代物だ」二 その日のナポレオンの奇怪な哄笑に驚いたネー将軍の感覚は正当であった。ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗を極めていた。この事実を知っていたも・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・けれども別に何の悔い心も起らなかった。ただ彼は自分の博愛心を恋人に知らす機会を失つたことを少なからず後悔した後で、それほどまでも秋三に踊らせられた自分の小心が腹立たしくなって来た。が、曽て敵の面前で踊った彼の寛大なあのひと踊りの姿は、一体彼・・・ 横光利一 「南北」
・・・彼は普通の人のごとくに歩み、語り、食い、眠る。この点においては彼は常人と区別がつかない。けれどもひとたび彼を楽器の前に据えれば彼はたちまち天才として諸君に迫って来る。しかし諸君の前に一人の黒人が現われたとする。一眼見れば直ちにその黒人である・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫