・・・これは彼の苦心の中でも比較的楽な方だったかも知れない。が、彼の日記によれば、やはりいつも多少の危険と闘わなければならなかったようである。「七月×日 どうもあの若い支那人のやつは怪しからぬ脚をくつけたものである。俺の脚は両方とも蚤の巣窟と・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・――こいつは僕も苦心の結果、最近発見した真理なんだがね。」「堀川さん、宮本さんの云うことなどを真面目に聞いてはいけませんよ。」 これはもう一人の物理の教官、――長谷川と云う理学士の言葉だった。保吉は彼をふり返った。長谷川は保吉の後ろ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・この場になって、その間の父の苦心というものを考えてみないではなかった。父がこうして北海道の山の中に大きな農場を持とうと思い立ったのも、つまり彼の将来を思ってのことだということもよく知っていた。それを思うと彼は黙って親子というものを考えたかっ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・僕はしめたと思って、物をいい出すつぎ穂に苦心したが、あんな海千山千の動物には俺の言葉はとてもわからないと思って黙っていた。全くあんな怪物の前に行くと薄気味の悪いもんだね。そうしたら堂脇が案外やさしい声で、「失礼ながらどちらでご勉強です、たい・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・筆者は、大石投魚を顕わすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。 お天守の杉から、再び女の声で……「そんな重いもの持運ぶまでもありませんわ。ぽう、ぽっぽ――あの三人は町へ遊びに出掛ける処なんです。少しばかり誘をか・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・が、名を知られ、売れッこになってからは、気振りにも出さず、事の一端に触れるのをさえ避けるようになった。苦心談、立志談は、往々にして、その反対の意味の、自己吹聴と、陰性の自讃、卑下高慢になるのに気附いたのである。談中――主なるものは、茸で、渠・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ つけつけと小言を言わるれば口答えをするものの、省作も母の苦心を知らないほど愚かではない。省作が気ままをすれば、それだけ母は家のものたちの手前をかねて心配するのである。慈愛のこもった母の小言には、省作もずるをきめていられない。「仕事・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・しかし難中の難事は荒地に樹を植ゆることでありました、このことについてダルガスは非常の苦心をもって研究しました。植物界広しといえどもユトランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈わす樹はあるやなしやと彼は研究に研究を重ねました。しかし・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 学校へ行く男の子が、虫の標本をつくるといって、いろ/\のせみを苦心して、木から捕えて来ました。彼に、こうした興味を呼び起した動機は、偶然、野原かどこかで、小さな美しい草ぜみの死骸を見出したことからです。「お父さん、ごらんなさい・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・は文字には書けず、私など苦心惨憺した結果「そうだ」と書いて、「そうだす」と同じ意味だが、「す」を省略した言葉だというまわりくどい説明を含んだ書き方でごまかしているのである。が、これとても十分な書き方ではなく、一事が万事、大阪弁ほど文章に書き・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
出典:青空文庫