・・・――これは稲荷殿へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」 と寄せた杖が肩を抽いて、背を円く流を覗いた。「この魚は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」「お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。」 私も・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 憚り多いが、霊容の、今度は、作を見ようとして、御廚子に寄せた目に、ふと卯の花の白い奥に、ものを忍ばすようにして、供物をした、二つ折の懐紙を視た。備えたのはビスケットである。これはいささか稚気を帯びた。が、にれぜん河のほとり、菩提樹の蔭・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ あの、雪を束ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あわれな状は、月を祭る供物に似て、非ず、旱魃の鬼一口の犠牲である。 ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわっと泣いた。 赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のずまで・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから私……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお供物にきざ柿と楊枝とを買いました、……石段下のそこの小店のお媼さんの話ですが、山王・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ハース氏に聞いてみると、これは純粋なドイツの古習で、もとはある女神のためにささげた供物だそうな。今日では色つけ玉子を草の中へかくして子供に捜させる、そしてこの玉子は兎が来て置いて行ったのだと教えるという。 朝飯が終わったころはもうシンガ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
毎年春と秋と一度ずつ先祖祭をするのがわが家の例である。今年の秋祭はわが帰省中にとの両親の考えで少し繰り上げて八月某日にする事ときめてあったが、数日来のしけで御供物肴がないため三日延びた。その朝は早々起きて物置の二階から祭壇を下ろし煤を・・・ 寺田寅彦 「祭」
・・・ それから、つい近年まで、法事のあるたんびに、日が同じだからと云うんで、忰の方も一緒にお供養下すって、供物がお国の方から届きましたが、私もその日になると、百目蝋燭を買って送ったり何かしたこともござえんしたよ。 ……それで仲間の奴等時・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・例えば死者を祭るに供物を捧ぐるは生者の情なれども、其情如何に濃なるも亡き人をして飲食せしむることは叶わず。左れば生者が死者に対して情を尽すは言うまでもなく、懐旧の恨は天長地久も啻ならず、此恨綿々絶ゆる期なしと雖も、冥土人間既に処を殊にすれば・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・近頃はわしの祭にも供物一つ持って来ん、おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはきっと泥の底に引き擦り込んでやろう。」土神はまたきりきり歯噛みしました。 樺の木は折角なだめようと思って云ったことが又もや却ってこんなことになったのでも・・・ 宮沢賢治 「土神ときつね」
出典:青空文庫