・・・「すると明治二十七年の冬、世間は日清戦争の噂に湧き返っている時でしたが、やはり十六日の説教日に、和尚が庫裡から帰って来ると、品の好い三十四五の女が、しとやかに後を追って来ました。庫裡には釜をかけた囲炉裡の側に、勇之助が蜜柑を剥いている。・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ 遠くで稲妻のする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然と腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。 ――――――――――――――――――――――――― 修理は、翌日、宇左衛門から、佐渡・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・あいにくの吹き降りで、不二見村の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹が、青い杓子をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡を後ろにして、夏目先生の「草枕」の一節を思い出させたのは、今でも歴・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
天王寺の別当、道命阿闍梨は、ひとりそっと床をぬけ出すと、経机の前へにじりよって、その上に乗っている法華経八の巻を灯の下に繰りひろげた。 切り燈台の火は、花のような丁字をむすびながら、明く螺鈿の経机を照らしている。耳には・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・燻製の魚のような香いと、燃えさしの薪の煙とが、寺の庫裡のようにがらんと黝ずんだ広間と土間とにこもって、それが彼の頭の中へまでも浸み透ってくるようだった。なんともいえない嫌悪の情が彼を焦ら立たせるばかりだった。彼はそこを飛び出して行って畑の中・・・ 有島武郎 「親子」
・・・それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫裡から、ここに准胝観世音の御堂に詣でた。 いま、その御廚子の前に、わずかに二三畳の破畳の上に居るのである。 さながら野晒の肋骨を組合わせたように、曝・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ ……根太の抜けた、荒寺の庫裡に、炉の縁で。…… 三 西明寺――もとこの寺は、松平氏が旧領石州から奉搬の伝来で、土地の町村に檀家がない。従って盆暮のつけ届け、早い話がおとむらい一つない。如法の貧地で、堂も庫裡・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 峰の松風が遠く静に聞えた。 庫裡に音信れて、お墓経をと頼むと、気軽に取次がれた住職が、納所とも小僧ともいわず、すぐに下駄ばきで卵塔場へ出向わるる。 かあかあと、鴉が鳴く。……墓所は日陰である。苔に惑い、露に辷って、樹島がやや慌・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 片手に蝋燭を、ちらちら、片手に少しばかり火を入れた十能を持って、婆さんが庫裏から出た。「糸塚さんへ置いて行きます、あとで気をつけて下さいましよ、烏が火を銜えるといいますから。」 お米も、式台へもうかかった。「へい、もう、刻・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ お光は店を揚って、脱いだ両刳りの駒下駄と傘とを、次の茶の間を通り抜けた縁側の隅の下駄箱へ蔵うと、着ていた秩父銘撰の半纏を袖畳みにして、今一間茶の間と並んだ座敷の箪笥の上へ置いて、同じ秩父銘撰の着物の半襟のかかったのに、引ッかけに結んだ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫