・・・皿を破り飯櫃を投ぐるは僕も亦能くせざる所なり。僕問う。「君はなぜ賄征伐をしない?」恒藤答う。「無用に器物を毀すのは悪いと思うから。――君はなぜしない?」僕答う。「しないのじゃない、出来ないのだ。」 今恒藤は京都帝国大学にシュタムラアとか・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・その人、わが眼を挙ぐるより早く、風の如く来りて、問いけるは、「汝、われを知るや」と。われ、眼を定めてその人を見れば、面はさながら崑崙奴の如く黒けれど、眉目さまで卑しからず、身には法服の裾長きを着て、首のめぐりには黄金の飾りを垂れたり。われ、・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・丸太ぐるみ、どか落しで遁げた、たった今。……いや、遁げたの候の。……あか褌にも恥じよかし。「大かい魚ア石地蔵様に化けてはいねえか。」 と、石投魚はそのまま石投魚で野倒れているのを、見定めながらそう云った。 一人は石段を密と見上げ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ その日午前九時過ぐるころ家を出でて病院に腕車を飛ばしつ。直ちに外科室の方に赴くとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目よき婦人二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。 見れば渠らの間には、被布着たる一・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・しかし表面にぎやかではないが、おとよさんとおはまの心では、時間の過ぐるも覚えないくらいにぎやかな思いでいるのである。 省作はもちろんおとよさんが自分を思ってるとはまだ気がつかないが、少しそういう所に経験のある目から見れば、平生あまり人に・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・々念々恨何ぞ窮まらん 憐れむべし房総佳山水 渾て魔雲障霧の中に落つ 伏姫念珠一串水晶明らか 西天を拝し罷んで何ぞ限らんの情 只道下佳人命偏に薄しと 寧ろ知らん毒婦恨平らぎ難きを 業風過ぐる処花空しく落ち 迷霧開く時銃忽ち鳴る・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・荒地に水を漑ぐを得、これに樹を植えて植林の実を挙ぐるを得ば、それで事は成るのであります。事はいたって簡単でありました。しかし簡単ではあるが容易ではありませんでした。世に御し難いものとて人間の作った沙漠のごときはありません。もしユトランドの荒・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・頭の上の松の木を渡る風の音まで、バイオリンの音に心をとめて、しのび足して過ぐるように思われました。 いつしか、村の子供らまで、松蔵の弾くバイオリンの音を、感心して聞くようになりました。 松蔵は、おじいさんがいなくなっても毎日のように・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・ 金さんはそれじゃ船ぐるみ吹き流されるか、それとも沖中で沈んでしまって、今ごろは魚の餌食になっておいでだろうとそう思ってね、私ゃ弔供養をしないばかりでいたんだよ。本当にまあ、それでもよく無事で帰っておいでだったね」 男はこの時気のついた・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・軽部は大阪天王寺第×小学校の教員、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取りいるためだった。下寺町の広沢八助に入門し、校長の相弟子たる光栄に浴していた。なお校長の驥尾に附して、日本橋五丁目の裏・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫