・・・ 爾来七八年を経過した今日、その時の海の静かさだけは妙に鮮かに覚えている。保吉はこう云う海を前に、いつまでもただ茫然と火の消えたパイプを啣えていた。もっとも彼の考えはお嬢さんの上にばかりあった訣ではない。たとえば近々とりかかるはずの小説・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 何週間かは経過した。 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に眠っていた、新らしい生命が眼を覚ました。それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断って横わっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷物の下に、・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・「事業の経過はだいたい得心が行きました。そこでと」 父は開墾を委託する時に矢部と取り交わした契約書を、「緊要書類」と朱書きした大きな状袋から取り出して、「この契約書によると、成墾引継ぎのうえは全地積の三分の一をお礼としてあなたの・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そういう覚悟を取ることがかえって経過の純粋性を保ち、事件の推移の自然を助けるだろうと信ずるのだ。かかる態度が直接に万が一にも労働階級のためになることがあるかもしれない。中流階級に訴える僕の仕事が労働階級によって利用される結果になるかもしれな・・・ 有島武郎 「片信」
・・・ 短い沈黙を経過する。儀式は皆済む。もう刑の執行より外は残っていない。 死である。 この刹那には、この場にありあわしただけの人が皆同じ感じに支配せられている。どうして、この黒い上衣を着て、シルクハットを被った二十人の男が、この意・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明にその数字さえ算えられたのは、一点、蛍火の薄く、そして瞬をせぬのがあって、胸のあたりから、斜に影を宿したためで。 手を当てると冷かった、光が隠れて、掌に包まれたのは襟飾の小さな宝・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・それで無うてから既に露店の許された時間は経過して、僅に巡行の警官が見て見ぬ振という特別の慈悲を便りに、ぼんやりと寂しい街路の霧になって行くのを視めて、鼻の尖を冷たくして待っておったぞ。 処へ、てくりてくり、」 と両腕を奮んで振って、・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・肛門を見て、死後三十分くらいを経過しているという。この一語は診察の終わりであった。多くの姉妹らはいまさらのごとく声を立てて泣く、母は顔を死児に押し当ててうつぶしてしまった。池があぶないあぶないと思っていながら、何という不注意なことをしたんだ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。 陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故、野の仕事も今日一渡り・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 博文館は此の二十五年間を経過した。当時本郷の富坂の上に住っていた一青年たる小生は、壱岐殿坂を九分通り登った左側の「いろは」という小さな汁粉屋の横町を曲ったダラダラ坂を登り切った左側の小さな無商売屋造りの格子戸に博文館の看板が掛っていた・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
出典:青空文庫