・・・ というそんな微妙な事情を、寿子はさすがに継子の本能で、敏感に嗅ぎつけていたから、自分の眠れないことよりも、まず自分のヴァイオリンが母親の眠りを邪魔をしていることの辛さが先立つのだった。 だから、早いこと巧く弾いて、父親から「出来た・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・ 刑務所の書信用紙というのは赤刷りの細かい罫紙で、後の注意という下の欄には――手紙ノ発受ハ親類ノ者ニノミコレヲ許スソノ度数ハ二カ月ゴトニ一回トス賞表ヲ有スル在所人ニハ一回ヲ増ス云々――こういった事項も書きこまれてある。そして手紙の日づけ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 文芸を愛好する故に倫理学を軽視するという知識青年の風潮は確かに青年層の人格的衰弱の徴候といわねばならぬ。 四 社会運動と倫理学 青年層にはまた倫理学を迂遠でありとし、象牙の塔に閉じこもって、現実の世相を知らない・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・しかし、なぜかなつかしくって、息子がインキで罫紙に書いた手紙を、鼻さきへ持って行って嗅いで見た。清三の臭いがしているように思われた。やがて為吉が帰ると、彼女はまっ先に手紙を見せた。 為吉は竈の前につくばって焚き火の明りでそれを見たが、老・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・自分の軽視されたということよりも、夫の胸の中に在るものが真に女わらべの知るには余るものであろうと感じて、なおさら心配に堪えなくなったのである。 格子戸は一つ格子戸である。しかし明ける音は人々で異る。夫の明けた音は細君の耳には必ず夫の明け・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・源三の腹の中は秘しきれなくなって、ここに至ってその継子根性の本相を現してしまった。しかし腹の底にはこういう僻みを持っていても、人の好意に負くことは甚く心苦しく思っているのだ。これはこの源三が優しい性質の一角と云おうか、いやこれがこの源三の本・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ それならば、すなわち、刑死はどうか。その生理的に不自然なことにおいて、これら諸種の死となんの異なるところがあろうか。これら諸種の死よりも、さらに嫌悪し、哀弔すべき理由があるであろうか。 五 死刑は、もっとも・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 然らば即ち刑死は如何、其生理的に不自然なるに於て、此等諸種の死と何の異なる所があろう歟、此等諸種の死よりも更に嫌悪し忘弔すべき理由があるであろう歟。 五 死刑は最も忌わしく恐るべき者とせられて居る、然し私には単・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 私の辞書に軽視の文字なかった。 作品のかげの、私の固き戒律、知るや君。否、その激しさの、高さの、ほどを! 私は、私の作品の中の人物に、なり切ったほうがむしろ、よかった。ぐうだらの漁色家。 私は、「おめん!」・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・「私は神の継子。ものごとを未解決のままで神の裁断にまかせることを嫌う。なにもかも自分で割り切ってしまいたい。神は何ひとつ私に手伝わなかった。私は霊感を信じない。知性の職人。懐疑の名人。わざと下手くそに書いてみたりわざと面白くなく書いてみたり・・・ 太宰治 「もの思う葦」
出典:青空文庫