・・・八千円ばかりの金高から百円を帳面で胡魔化すことは、たとい自分に為し得ても、直ぐ後で発覚る。又自分にはさる不正なことは思ってみるだけでも身が戦えるようだ。自分が弁償するとしてその金を自分は何処から持て来る? 思えば思うほど自分はどうして可・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・それなら火事を消すことをさきにするであろう。 しかしこの決め方にも人情にかなわない無理があることを免れない。目の前に自分の子どもの手が霜焼けている。新聞に支那の洪水の義捐の募集が出ている。手袋を買ってやる金を新聞社に送るべきか。リップス・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 栗本の腕は、傷が癒えても、肉が刳り取られたあとの窪んだ醜い禿は消す訳に行かなそうだった。「福島はどうでしょうか、軍医殿。」「帰すさ。こんな骨膜炎をいつまでも置いといちゃ場所をとって仕様がない。」 あと一週間になった。と、彼・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・何の気もなく瞻めいたるにまたもや大吉に認けられお前にはあなたのような方がいいのだよと彼を抑えこれを揚ぐる画策縦横大英雄も善知識も煎じ詰めれば女あっての後なりこれを聞いてアラ姉さんとお定まりのように打ち消す小春よりも俊雄はぽッと顔赧らめ男らし・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・と打消すようにいう。「何の事なんです、これは」「ほほほ」「フジサンというのは」「あたしでございます」「ああ、お藤さんとおっしゃるんですか」「はい」と藤さんは微笑みながら、立って押入れを探す。 藤さんという名はこう・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、凝ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで颯っと呑みほし、それから大急ぎでごはんをすまして、ごゆっくり、と真面目にお辞儀して、もう掻き消すように、いなくなってしまいます。とても、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・隙も無くぴったりくっついて立っているのを見事に感じ、これは言葉に依る思想訓練の結果であろうか、或いはまた逆に、思想に依る言葉の訓練の成果であろうか、とにかく永い修練の末の不思議な力量を見たという思いを消す事が出来ませんでした。あなたが、あれ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・指で窓ガラスに、人の横顔を落書して、やがて拭き消す。日が暮れて、車室の暗い豆電燈が、ぼっと灯る。私は配給のまずしい弁当をひらいて、ぼそぼそたべる。佃煮わびしく、それでも一粒もあますところ無くたべて、九銭のバットを吸う。夜がふけて、寝なければ・・・ 太宰治 「鴎」
・・・先輩としての利己主義を、暗黙のうちに正義に化す。」 私は、いやな気がした。こんどは、本心から、この少年に敵意を感じた。 第二回 決意したのである。この少年の傲慢無礼を、打擲してしまおうと決意した。そうと決意す・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・にする。健全の思念は、そのあとから、ぞろぞろついて来て呉れる。尼になるお光よりは、お染を、お七を、お舟を愛する。まず、試みよ。声の大なる言葉のほうが、「真理」に化す。ばか、と言われた時には、その二倍、三倍の大声で、ばか、と言い返せよ。論より・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
出典:青空文庫