・・・床の上に、小さな花瓶に竜胆の花が四五本挿してある。夏二た月の逗留の間、自分はこの花瓶に入り替りしおらしい花を絶やしたことがなかった。床の横の押入から、赤い縮緬の帯上げのようなものが少しばかり食みだしている。ちょっと引っ張ってみるとすうと出る・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・自分自身を悪い男だ、駄目な男だと言いながら、その位置を変える事には少しも努力せず、あわよくばその儘でいたい、けれどもその虫のよい考えがあまり目立っても具合いが悪いので、仮病の如くやたらに顔をしかめて苦痛の表情よろしく、行きづまった、ぎりぎり・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ 百合の花は、何かあり合せの花瓶に活けて部屋に持って来るよう女中に言いつけて、私は、私の部屋へかえって机のまえに坐ってみた。いい仕事をしなければいけないと思った。いい弟と、いい妹の陰ながらの声援が、脊中に涼しく感ぜられ、あいつらの為にだ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・困り入ってどうしたものかと考えながらその解釈を捜すような心持で棚の上を見ると、そこに一つの白釉のかかった、少し大きい花瓶が目についた。これも粗末ではあるが、鼠色がかった白釉の肌合も、鈍重な下膨れの輪郭も、何となく落ちついていい気持がするので・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・縁に出した花瓶の枯菊の影がうら淋しくうつって、今日も静かに暮れかかっている。発汗剤のききめか、漂うような満身の汗を、妻は乾いたタオルで拭うてくれた時、勝手の方から何も知らぬ子供がカタコトと唐紙をあけて半分顔を出してにこにこした。その時自分は・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ ヴェランダの上にのせた花瓶代用の小甕に「ぎぼし」の花を生けておいた。そのそばで新聞を読んでいると大きな虻が一匹飛んで来てこの花の中へもぐり込む。そのときに始めて気のついたことは、この花のおしべが釣り針のように彎曲してその葯を花の奥のほ・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ 食卓には、いつも、切子ガラスの花瓶に、時節の花が挿してあった。それがどんな花であっても純白の卓布と渋色のパネルによくうつって美しかった。ガラス障子の外には、狭い形ばかりの庭ではあるが、ちょっとした植込みに石燈籠や手水鉢などが置いてあっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・卓上の花瓶に生けた紫色のスウィートピーが美しく見えた。 会館前で友人と別れて、人通りの少ない仲通りを歩いていると、向こうから子供をおぶった男が来かかって、「ちょっと伺いますが亀井戸へはどう行ったらいいでしょう。……玉の井という所へ行くの・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・ピアノが台の下の小滑車で少しばかり歩き出しており、花瓶台の上の花瓶が板間にころがり落ちたのが不思議に砕けないでちゃんとしていた。あとは瓦が数枚落ちたのと壁に亀裂が入ったくらいのものであった。長男が中学校の始業日で本所の果てまで行っていたのだ・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・西洋でも花瓶に花卉を盛りバルコンにゼラニウムを並べ食堂に常緑樹を置くが、しかし、それは主として色のマッスとしてであり、あるいは天然の香水びんとしてであるように見える。「枝ぶり」などという言葉もおそらく西洋の国語には訳せない言葉であろう。どん・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
出典:青空文庫