・・・健吉からは時々検印の押さった封緘葉書が来た。それが来ると、母親はお安に声を出して読ませた。それから次の日にモウ一度読ませた。次の手紙が来る迄、その同じ手紙を何べんも読むことにした。 * とり入れの済んだ頃、母親とお安・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・私たちの家では人を頼んで検印を押すだけに十日もかかった。今度の出版の計画が次第に実現されて行くことを私の子供らもよく知っていた。しかしそんなまとまった金がふところにはいるということを、私は次郎にも末子にも知らせずに置いた。 私は、「財は・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・大凧が充分に風をはらんで揚がる時は若者の二人や三人は引きずられるくらいの強い牽引力をもっている。 凧揚げのあとは酒宴である。それはほんとうにバッカスの酒宴で、酒は泉とあふれ、肉は林とうずたかく、その間をパンの群れがニンフの群れを追い回す・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・僕がポオやドストイェフスキイに牽引されるのも、つまりは彼等の中に、異常性格者的なデカダンスがあるために外ならない。僕のやうな人間が、もし自然のままの傾向で惰力して行つたら、おそらく辻潤や高橋新吉のやうな本格的のダダイストになつたにちがひない・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・けれども私は、或る状態の裡に全く偶然な機会によって出生した一人間が、自己の道をつける為、どんな努力をするか、失敗するか、終局に於いて成し遂げ得たかと云う全過程に深い愛と牽引を感じます。貴女は自分の愚かさ、間抜けさを、そんなに可愛がっていらっ・・・ 宮本百合子 「大橋房子様へ」
・・・性的牽引としての恋愛と結婚とはアグネスの内部で自由と奴隷の二つの極端に立たせられ、観念の上においてさえ決して和解出来ぬもののように現れている。彼女を愛す善良で進歩的な男たちが、新しい内容で男女の結婚生活の可能を説得しようとしても、アグネスは・・・ 宮本百合子 「中国に於ける二人のアメリカ婦人」
・・・私たちの祖先の人たちが地平線を眺めてやはりいうにいえない牽引を感じたのとは、また違った現代の豊富な知識と感想とをもって私たちは地平線を眺めるのである。地球というものを考える。 常識は地球の円いことを語る。遠い地平線を眺めると人間はいろい・・・ 宮本百合子 「山の彼方は」
・・・人間の心理は微妙であるから、自然な状態におかれればおのずから親密さや選択の生じる若い男女が、はじめからある禁圧を意識して日々対していることから、牽引が変形して一種不自然な反撥となって感情の中には映って来ることさえあるのである。 さいわい・・・ 宮本百合子 「若き世代への恋愛論」
・・・済んだのは、検印をして、給仕に持たせて、それぞれ廻す先へ廻す。書類中には直ぐに課長の処へ持って行くのもある。 その間には新しい書類が廻って来る。赤札のは直ぐに取り扱う。その外はどの山かの下へ入れる。電報は大抵赤札と同じようにするのである・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・いや、それより、自分の中から剥げ落ちようとしている栖方の幻影を、むしろ支えようとしているいまの自分の好意の原因は、みな一重に栖方の微笑に牽引されていたからだと思った。彼はそれが口惜しく、ひと思いに彼を狂人として払い落してしまいたかった。梶は・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫