・・・「汝ゃ拳固こと喰らいていがか」 女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々荒らかになった。 執着の強い笠井も立なければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・なんだかこう、神聖なる刑罰其物のような、ある特殊の物、強大なる物、儼乎として動かざる物が、実際に我身の内に宿ってでもいるような心持がする。無論ある程度まで自分を英雄だと感じているのである。奥さんのような、かよわい女のためには、こんな態度の人・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・「腕を、拳固がまえの握拳で、二の腕の見えるまで、ぬっと象の鼻のように私の目のさきへ突出した事があるんだからね。」「まだ、踊ってるようだわね、話がさ。」「私も、おばさん、いきなり踊出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 織次は、小児心にも朝から気になって、蚊帳の中でも髣髴と蚊燻しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚い弟子が古浴衣の膝切な奴を、胸の処でだらりとした拳固の矢蔵、片手をぬい、と出し、人の顋をしゃくうような手つきで、銭を強請る、爪・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・―― と、うしろから、拳固で、前の円い頭をコツンと敲く真似して、宗吉を流眄で、ニヤリとして続いたのは、頭毛の真中に皿に似た禿のある、色の黒い、目の窪んだ、口の大な男で、近頃まで政治家だったが、飜って商業に志した、ために紋着を脱いで、綿銘・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・防戦したのであろうが、味方は名に負う猪武者、英吉利仕込のパテント付のピーボヂーにもマルチニーにも怯ともせず、前へ前へと進むから、始て怖気付いて遁げようとするところを、誰家のか小男、平生なら持合せの黒い拳固一撃でツイ埒が明きそうな小男が飛で来・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・自分の餓鬼ひとりだって傍に置いたこともないくせに……」「………」自分の拳固が彼女の頬桁に飛んだ。…… ほとんど一カ月ぶりで、二時過ぎに起きて、二三町離れたお湯へ入りに行った。新聞にも上野の彼岸桜がふくらみかけたといって、写真も出・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・彼は顔を真赤にして、テーブルの上にのしかかるように突立って、拳固を振廻さないばかしの調子で、呶鳴りだしたのだ。私たちはふたたび椅子に腰をおろし始めた。そして偶然のように、笹川一人が、テーブルの向う側に置かれていた。「いや、そう言われると・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・そう言って、いきなり横ッ面を拳固でなぐりつけた。逃亡者はまるで芝居の型そっくりにフラフラッとした。頭がガックリ前にさがった。そして唾をはいた。血が口から流れてきた。彼は二、三度血の唾をはいた。「ばか、見ろいッ!」 親分の胸がハダけて・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・学校へ行かないのだって平気であったが忠公にそう云われると口惜しかった。拳固を握りしめて、一太は、「おっかちゃんにチンポコなんぞなーいよ、イーだ!」とやりかえした。一太と忠公とは四尺ばかり離れたあっちとこっちで、睨めっこしたり、口の中・・・ 宮本百合子 「一太と母」
出典:青空文庫