・・・池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬かれてしまった後、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。この溝渠には曾て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条もかけられていたのであるが、それ等旧時の光・・・ 永井荷風 「上野」
・・・三枚橋のかけられていた御徒町の忍川の如き溝渠である。 そのころ人の家をたずね歩むに当って、番地よりも橋の名をたよりにして行く方が、その処を知るにはかえって迷うおそれがなかった。しかしこれら市中の溝渠は大かた大正十二年癸亥の震災前後、街衢・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・の立っていた大門外の堤に佇立んで、東の方を見渡すと、地方今戸町の低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小塚ッ原の女郎屋の裏手が見え、堤の直ぐ下には屠牛場や元結の製造場などがあって、山谷堀へつづく一条の溝渠が横わっていた。毒だみの花や、赤のま・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから真直に北の方本所竪川に通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺の塀外を流れ、富川町や東元町の陋巷を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・啻に河岸のみならず灌田のために穿った溝渠の中、または人家の園池にも蒹葭は萋々と繁茂していた。蜀山人が作にも金竜山下起二金波一 〔金竜山下に金波を起こし砕二作千金一散二墨河一 千金を砕作して墨河に散る別有三幽荘引二剰水一 ・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ たとえば往古支那にて、天子の宮殿も、茆茨剪らず、土階三等、もって安しというといえども、その宮殿は真実安楽なる皇居に非ず。かりに帝堯をして今日にあらしめなば、いかに素朴節倹なりといえども、段階に木石を用い、屋もまた瓦をもって葺くことなら・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・此は生理的の結果で、人間の内に神が死なない限り、人は只異性と公許の交接によって子供を産む事――その事実のみに幸福を感じて満足するものではないのだ。自分は結婚を肯定する。広い範囲に於て肯定する。単に、爾姦淫せざらん為に許りではない。人間は、よ・・・ 宮本百合子 「黄銅時代の為」
・・・これより先き寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、少林城において御薨去なされ候。かの末木の香は「世の中の憂きを身に積む柴舟やたかぬ先よりこがれ行らん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。 某・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・しからばあとに残されたのは、皇居離宮などのまわりをうろつくか、または行幸啓のときに路傍に立つことのみである。それは平時二重橋前に集まり、また行幸啓のとき路傍に立っている人々の行為と、なんら異なったものでない。それは我々の経験によれば、警衛で・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫